ここで何が起こっているのでしょうか
神はいつもへりくだる者に報い、高慢な者を低くされます。ところが、ユダの新しい王アマツヤは、ある程度までしか、へりくだって神に従おうとしませんでした(歴代誌Ⅱ 25:1〜2)。治世の始まりは良いものでした。父を殺した謀反人たちを、正義にかなったやり方で裁きます。そして、それまでの多くの王たちとは違って、神の律法に従い、復讐心に飲み込まれることを拒みます(歴代誌Ⅱ 25:3〜4)。それからアマツヤは軍を召集し、エドムの国を攻めようとします(歴代誌Ⅱ 25:5〜6)。兵を集める中で、彼は反逆した北のイスラエルから十万人の傭兵を雇います。すると一人の預言者が王のもとに来て、神とその選ばれた王を捨てた国と軍事同盟を結べば、必ず敗北に終わると警告します(歴代誌Ⅱ 25:7〜8)。そこでアマツヤは雇った兵を帰し、彼らなしで戦いに出て行きます。失った費用は神が取り戻してくださり、戦いに勝利を与えてくださると、へりくだって信頼したのです。神はアマツヤのへりくだりを尊び、彼は勝利を収めて帰還します(歴代誌Ⅱ 25:9〜12)。
しかし帰り道で、アマツヤはエドムの神々の偶像を持ち帰り、それにひざまずいてしまいます。預言者がアマツヤのもとに来て、自分の神がたった今打ち破られた神々に、なぜひざまずくのかと問いかけます(歴代誌Ⅱ 25:14〜15)。ところがアマツヤは高慢にも、その預言者の忠告を退けます。預言者は、神の助言に耳を傾けないその態度のゆえに、あなたは倒れると告げます(歴代誌Ⅱ 25:16)。それでもアマツヤは反抗的に、自分の助言者たちで周りを固め、彼らは北のイスラエルを攻めるよう勧めます。イスラエルの王はこの脅しを取り合いません。それどころか、あなたは高慢に飲み込まれていると言い、手を引くよう強く勧めます(歴代誌Ⅱ 25:17〜19)。しかしエドムへの勝利に酔ったアマツヤは戦いに出て行き、敗北します。イスラエルはエルサレムに侵入し、その防備を壊し、神の神殿を略奪します。高慢なアマツヤは、やがて自分の家臣たちによって暗殺されます(歴代誌Ⅱ 25:20〜24)。
アマツヤの子ウジヤが王座に就きます。父の初期の歩みと同じように、彼もへりくだって神に従い、軍事的な勝利と国の平和を確保します(歴代誌Ⅱ 26:1〜8)。ウジヤはこの平和な時期を用いて、崩されたエルサレムの防備を築き直し、ユダの農地を回復させ、軍を再建し、新しい軍事技術に投資します(歴代誌Ⅱ 26:9〜15)。しかし力の絶頂で、ウジヤは高慢になります。彼は思い上がって神の神殿に入り込み、神に香をささげようとします。それは神の祭司たちにしか許されていない務めでした。祭司たちはやめるように警告しますが、彼は父と同じように、その忠告に耳を傾けようとしません。するとたちどころに、額にツァラアト(重い皮膚病)の症状が現れ、彼は強制的に隔離され、死ぬ日までそのまま過ごすことになりました(歴代誌Ⅱ 26:16〜23)。
福音はどこにあるのでしょうか
箴言には、高慢は倒れる前に来るという有名なことばがあります(箴言 16:18)。アマツヤとウジヤは、その真理をこの上なくはっきりと示す二つの例です。父も子も、へりくだって歩み始め、神は彼らに報いてくださいました。しかし時が経つうちに、二人とも神がなさったことを自分の功績のように扱い始めます。思い上がって、自分の滅びを招くだけの特権をつかみ取ろうとしたのです。神はいつもへりくだる者に報い、高慢な者を低くされます。しかもアマツヤとウジヤの失敗は、個人的な結果にとどまりません。王国全体を破滅へと引きずり込んでいくのです。歴代誌の記者は、へりくだったダビデの子がついに王座に就き、代表者たちが招いてしまった高慢と屈辱から神の民を導き出してくださる、という希望を私たちに抱かせようとしています。そのへりくだったダビデの子こそ、イエスです。
イエスは地上の生涯のすべてを、神のことばに従い、その導きに従って歩まれました(ルカの福音書 2:52、ヨハネの福音書 5:19)。イエスは、ご自分の命を失うことになってさえ、へりくだって従われたのです(ピリピ人への手紙 2:6〜8)。しかしイエスがへりくだった王であられたからこそ、神はダビデに約束された永遠の王座をもって報いてくださいました(ピリピ人への手紙 2:9〜10)。今、王イエスの前にへりくだってひざまずく人は誰でも、自分の高慢と避けられない死から導き出され、救い出されるのです。高慢は屈辱の前に来るかもしれません。けれどもイエスにあっては、屈辱は復活の前に来るのです。
ご自分の目で確かめてみましょう
高慢な者を低くされる神を見る目を、聖霊が開いてくださるよう祈ります。そして、高慢による滅びから神の民を救い出してくださる、へりくだった王イエスを見ることができますように。

