何が起こっているのでしょうか
神がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが善良だったから、公正だったから、あるいは信仰に満ちていたからではありません(9:4)。約束の地を受け継ぐのも、彼ら自身の善さによるのではないのです。それでも神がイスラエルをカナンに送り、住民を追い出させるのには、二つの理由があります。一つは住民が悪に染まっていたこと、もう一つは神が彼らの先祖アブラハムに約束されたことです(9:5)。イスラエルが選ばれた理由は、彼ら自身の善さではなく、神の正義と誠実さにあるのです。
自分たちがどれほど罪深いかを民に理解させるため、モーセは出エジプト記に記された金の子牛の出来事を語り直します(9:16)。唯一のまことの神の御前で、偽の神を造り上げてしまったのです。それほどまでに彼らは罪深い者でした。
それにもかかわらず、神は今も彼らを約束の地へ導いておられます。それほどまでに神は誠実なお方なのです。
そして神は、彼らがどれほど罪深いかを踏まえて、あることを民にお命じになります。心の包皮に割礼を施しなさい、と言われるのです(10:16)。割礼は、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしでした。男子が割礼を受けることは、神が祝福を約束された家系に属している、と告白することを意味していました(創世記 17:10)。
しかし彼らは、肉においては神の契約の民であっても、心においてはそのようには歩んでいませんでした。
そこで神は、男も女も、もっと深いところで区別をつけるようにと呼びかけられます。心から頑固さを切り取り、神を心のすべてをもって愛することによって、契約の民らしく生きるようにと招いておられるのです(6:5)。
では、どうすれば心に割礼を施せるのでしょうか。モーセは、申命記のことばを深く思い巡らすことによってだと語ります(11:18)。神の救い、神のさばき、神の命令を思い起こすことが、心から頑固さを切り取っていくのです。
ところが、イスラエルは自分の心に割礼を施すことができませんでした。実のところ、エジプトからの救出や約束の地を手に入れたことと同じように、これは神だけがなさりうるわざなのです(29:4)。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルと同じように、イエスが私たちを救ってくださるのは、私たちが善良だから、公正だから、ふさわしいからではありません。私たちは、不満をつぶやき、頑なだったイスラエル人と何も変わりません。しかも神の目の前で、偽の神々を賛美してしまうのです。本来、救われるはずのない者です。それでもイエスは、私たちを救ってくださいます。
さらにイエスは、私たちのうちに働いて心に割礼を施すために聖霊を送り、ご自身に従うことのできる新しい心を与えてくださいます(ローマ人への手紙 2:29)。クリスチャンとして、背くのではなく従うことができるとき、それはいつでも聖霊のみわざなのです。
私たちが自分の義によって救われるのではないのと同じように、善を行うのも自分の義によるのではありません(ガラテヤ人への手紙 3:3)。最初の救いも、続いていく聖化も、どちらも恵みのわざです。そしてこの恵みによる新しい心が、神が私たちのために備えてくださったあらゆる良いわざに歩ませてくれるのです(エペソ人への手紙 2:10)。
では、この内側での手術に、どうすれば聖霊とともに加わることができるのでしょうか。モーセがイスラエル人に命じたことを、私たちも行うのです。思い起こすことです。神の最終的なことばであるイエスに、心を向けてみましょう(コロサイ人への手紙 3:2)。ふさわしくない自分をどのように救ってくださったのかを、深く思い巡らしてみましょう。そうするとき、私たちの心は、神を余すところなく完全に愛する心へと造り変えられ続けていくのです(コリント人への手紙Ⅱ 3:18)。
ご自身で確かめてみましょう
ふさわしくない者を救い、その者に良いわざを託してくださる神を見る目を、聖霊が開いてくださるように祈ります。そして、あらゆる良いわざにふさわしい新しい心を与えてくださる方として、イエスを見つめることができますように。

