何が起こっているのでしょうか
この冒頭の数章を通して、ヨシュアはくり返しモーセと重ね合わせて描かれています。モーセと同じように「主のしもべ」と呼ばれ、カナンの地に偵察者を送り、イスラエルの各部族の長たちに命令を下します(ヨシュア記 2:1、8、10)。ヨシュアには、モーセと同じ「知恵の霊」が宿っていたとも語られています(申命記 34:9)。ヨシュアがイスラエルを率いてヨルダン川を渡った日さえ、モーセがイスラエルをエジプトから導き出した日と重なっているのです(ヨシュア記 4:19)。けれどもヨシュアは、モーセがしたことをただくり返したのではありません。モーセが行けなかった場所へと進んで行きました。モーセは不従順のゆえにカナンに入ることを禁じられましたが、ヨシュアはその地を征服する許しを与えられているのです(ヨシュア記 1:9)。
ここまでイスラエルの人々は、ヨシュアをモーセの助手であり、すぐれた戦略家として知っていました。しかし彼が神の民を導く次の指導者であるべきかどうかは、まだはっきりしていませんでした。そこで神は、モーセのために紅海を分けられたのと同じように、ヨシュアのためにヨルダン川を分け、彼こそご自分の選んだしもべであることを証明されます(ヨシュア記 3:7〜8)。
ヨシュアは祭司たちに、契約の箱を担いで川に入るように告げます。その足の裏が水に触れたとたん、水は分かれ、イスラエルの軍勢は乾いた地面を歩いて渡って行きました(ヨシュア記 3:17)。イスラエルは畏れに打たれます。ヨシュアが神の選ばれた後継者であることは、もはや明らかでした(ヨシュア記 4:14)。
続いてヨシュアは、イスラエルの十二部族の長たちに、それぞれヨルダン川の真ん中から石を一つ取って来て、神の力を覚えるための記念の碑を築くように命じます(ヨシュア記 4:7)。後の世代がその石を見て、この新しい出エジプトの物語を思い起こすためです(ヨシュア記 4:22)。しかもこの石は、イスラエルを取り囲むすべての国々に対して、神がご自分の民とともにおられ、恐れられるべき方であることを告げるしるしでもありました(ヨシュア記 4:24)。
福音はどこにあるのでしょうか
モーセとヨシュアを結ぶこれらのつながりが大切なのは、それがそのままイエスへとつながっているからです。
英語の聖書では見えなくなってしまっていますが、イエスのヘブライ語の名は「ヨシュア」です。イエスは文字どおり新しいヨシュアであり、私たちをご自身の約束の地へと導き入れ、その死によって神の国を確立してくださる方なのです。そして、ヨシュアが神に従ってヨルダン川に足を踏み入れたように、イエスもまた従順のしるしとしてヨルダン川に入って行かれました(マタイの福音書 3:15)。
けれども今度は、川が分かれる代わりに、天が裂け開かれます(マルコの福音書 1:10)。そして、知恵の霊がヨシュアを満たしたように、聖霊が鳩のようにイエスの上にとどまります。そのとき神は、イエスを選ばれたしもべとしてだけでなく、ご自身の選ばれた御子として認められます(マタイの福音書 3:17)。
私たちもイスラエルと同じように、一つの王国の入口に立ち、新しい指導者を探し求めています。ヨルダン川が分かれたとき、イスラエルが畏れをもってヨシュアを仰ぎ見たように、神が天を裂かれた出来事を読む私たちも、畏れをもってイエスを仰ぎ見るのです。
イスラエルには、奴隷生活と放浪と追放の長い歴史がありました。けれども神は、モーセやヨシュアのような指導者を用いて彼らを解放し、帰るべき場所を与えてくださいました。
私たちも、当時のイスラエルと同じように奴隷であり、さまよう者です。罪と死の奴隷なのです。自分の国にいても、文化の中にいても、家族の中にいても、そこが本当の居場所とは思えない——そんな自分に気づきます。イエスを神の選ばれた御子として畏れをもって仰ぎ見るその日が、私たちが新しい御国に入る日となります。それは、過去の虐げや奴隷状態によってではなく、天を裂く神の声の力と、死を打ち破る神の御子にある希望によって特徴づけられる御国です。
イエスは私たちの新しいヨシュアであり、私たちをご自身の御国へ導き入れようと待っておられます。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が、解放を与え、王国を打ち立てられる神を見る目を開いてくださいますように。そして、私たちを自由へと導いてくださる選ばれた御子として、イエスを仰ぎ見ることができますように。

