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デボーション

ガラテヤ人への手紙 1〜2章

アイデンティティを示すしるし

この聖書の勉強会のためのディボーションでは、ガラテヤ人への手紙 1〜2章を取り上げます。この箇所で使徒パウロは、神の家族の一員となるためにユダヤ人であることを示すしるしは必要ではないと、はっきり語っています。

何が起こっているのでしょうか

ある教師たちの一団が、使徒パウロの語ったメッセージに公然と反対し始めました(ガラテヤ人への手紙 1:6〜7)。パウロは、神の家族の一員となるために必要なのは、イエスの生涯と死に信頼を置くこと、ただそれだけだと教えていました。ところが彼らは、イエスへの信仰は二段階のうちの第一歩にすぎないと教えたのです。第二歩とは、神の古くからの家族であるユダヤ人であることを示すしるし、つまり安息日を守ること、ユダヤ人の祭りを祝うこと、コーシャーの食事をすること、そして割礼を受け入れることでした(ガラテヤ人への手紙 5:2〜3)。さらに彼らは、パウロがこうした聖書の命令を避けているのは、異邦人の聞き手に受け入れられやすいメッセージにするためだ、と主張しました(ガラテヤ人への手紙 1:10)。ガラテヤ人への手紙は、こうした主張に対するパウロの応答なのです。

パウロはまず、自分のメッセージは神からじかに受けたものであり、異邦人に仕えてきた年月によって手を加えられたものではない、と語ります(ガラテヤ人への手紙 1:11〜12)。死からよみがえられたイエスご自身が、パウロを良い知らせの使者として任命されました。その良い知らせとは、イエスが私たちをこの時代の悪から救い出し、ご自身の家族の一員としてくださるために、身を捨ててくださったということです(ガラテヤ人への手紙 1:1〜5)。パウロははっきりと言い切ります。神の家族の一員となるために、ユダヤ人であることを示すしるしは必要ないのです。このメッセージは神からじかに来たものであり、ほかの福音などありません(ガラテヤ人への手紙 1:8〜9)。

神に救い出されたその時から、パウロはこの福音を熱心に語り続けてきました。自分のメッセージが神から出たものだという確信があまりに強かったので、ほかの使徒たちに相談することさえしませんでした(ガラテヤ人への手紙 1:15〜17)。三年後にようやく会ったとき、使徒たちはパウロのメッセージが自分たちのものと一致していることを認めました(ガラテヤ人への手紙 1:18〜24)。さらに十一年後、パウロが自分の働きを正式に彼らの検討にゆだねたときも、彼らはパウロの福音理解に何かを付け加えることもせず、ギリシヤ人の同労者に割礼を要求することもしませんでした(ガラテヤ人への手紙 2:1〜6)。むしろ彼らは、パウロが異邦人に語るメッセージが、自分たちがユダヤ人に語るメッセージと同じであることを確認したのです(ガラテヤ人への手紙 2:7〜10)。すなわち、神の家族に入れられるかどうかは、ユダヤ人であることを示すしるしによるのではなく、ただイエスへの信仰によるということです(ガラテヤ人への手紙 2:16)。

パウロは、使徒たちがこの立場と矛盾する生き方をしたときには、彼らに面と向かって語りさえしました。あるとき使徒ペテロは、割礼を要求する人たちの気持ちを損ねることを気にして、異邦人の一団と家族としての食卓を共にすることを拒みました(ガラテヤ人への手紙 2:11〜13)。しかしパウロは、それを見過ごしませんでした。異邦人と食事をしないというのは、家族の食卓に加わりたければまずユダヤ人のようにふるまわなければならない、と言っているのと同じことなのです(ガラテヤ人への手紙 2:14)。使徒たちさえイエスのメッセージをやわらげたい誘惑に引かれましたが、パウロはそうしませんでした。ガラテヤ人が誰かを信頼するとすれば、それはパウロであるべきでした。彼はイエスの良い知らせに手を加えることを、一貫して拒み続けたのです。

福音はどこにあるのでしょうか

ペテロもパウロも、神の家族の一員となることはユダヤ人の律法を守ることによるのではなく、ただイエスへの信仰によることを知っていました(ガラテヤ人への手紙 2:15〜16)。ですから、イエスを信じるユダヤ人が、自分たちのユダヤ人であることを示すしるしを受け入れないからといって異邦人から離れるのは、間違ったことなのです。それは、イエスが民族の違いにかかわりなく、その生涯と死によってすべての人を一つにされたことを否定することになります(ガラテヤ人への手紙 2:17〜19)。

私たちを神の家族の一員とするのは、ユダヤ人であることを示す何かの行いではなく、イエスに信頼することです(ガラテヤ人への手紙 2:20)。神の律法を破っているのは、割礼を受けていない人たちではなく、割礼やそのほかの「所属のしるし」を要求してやまない人たちなのです(ガラテヤ人への手紙 2:18)。イエスへの信仰に何かの行いを付け加えることは、イエスの死を無意味にしてしまうことにほかなりません(ガラテヤ人への手紙 2:20〜21)。

イエスが死んでくださったのは、私たちが一つとされた神の家族の一員として永遠に生きるためでした。イエスは民族の区別によって特徴づけられた古い時代を終わらせ、信仰によって特徴づけられる新しい時代をもたらされました(ガラテヤ人への手紙 1:4、5:6)。神の民はどの時代にあっても、新しい分け隔てを作り出す誘惑に直面します。どの日に賛美するか、何を食べるか、あるいは誰に投票するかによって「善い者」と「悪い者」を作り出すような、偽りの福音に安住してしまう人は、いつの時代にもいるのです。けれども良い知らせは、イエスに信頼することで十分だということです。イエスにあって、私たちはこの時代の分け隔てに対して死んだのです。そしてイエスへの信仰によって、すべての人がその家族の中へと一つにされました。古い敵意は葬り去られ、その代わりに、すべての人へのいのちを惜しまない愛が置かれているのです。

ご自身の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、ただ一つの福音を与えてくださった神を見ることができますようにお祈りします。そして、信頼すべき方はイエスおひとりであることが見えてきますように。

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