何が起こっているのでしょうか
ヘブル人への手紙の前の章では、一時的な痛みの先にある永続する相続財産を見つめた、イスラエルの誠実な受難者たちの系譜がたたえられていました。彼らは耐え忍んだ傷跡を、自分が神の家族に属している証しとして身に帯びていたのです(ヘブル人への手紙 11:35〜38)。そして手紙の最後の数章で、著者は迫害を受けている読者たちを、さらに深い真理によって励まします。苦しみは彼らが神の家族の一員であることを示すしるしにとどまらず、彼らを神の聖い子どもへと造り変え、揺るがされない御国を受け継ぐ者としてくださるのです。
著者は読者に、苦難を訓練として耐え忍ぶようにと語ります。それは天の父の愛の行為だからです(ヘブル人への手紙 12:7)。父親の訓戒は、子を成熟と責任へと備えるものでした。同じように、神の訓練は悪事に対する罰ではなく、神聖な者となるための鍛錬なのです(ヘブル人への手紙 12:8〜10)。苦しみの道は痛みを伴い、険しいものですが、たどり着く先はそれに値するものです。耐え忍ぶことを通して、私たちは神の神聖さと相続財産にあずかる神の子どもとされていきます(ヘブル人への手紙 12:11〜14)。
続いて著者は、創世記のエサウの物語を、身の引き締まる警告として語ります。エサウは空腹のとき、長子としての正当な相続権である長子の権利を、一杯の煮物と引き替えにしてしまいました(ヘブル人への手紙 12:15〜17)。あれほど莫大な相続財産を受け取るために、わずかな空腹さえ耐え忍ぼうとしなかったのです。ヘブル人への手紙の著者は、このエサウの物語を用いてこう訴えます。一時的な安らぎのために、永遠の喜びを犠牲にしないでください。苦しみと訓練を耐え忍ぶ者には、聖い相続財産が待っているのです。
この聖い相続財産とは、神の御前で生きることです。しかもそれは、著者のユダヤ人の読者たちがこれまでに経験してきたどんなものよりもすばらしいものです。それを示すために、著者は出エジプト記でシナイ山に神の臨在が降った出来事を持ち出します。そこでイスラエルは、神の声によって震え砕けるような、恐ろしい山の前に連れて来られました。神の民は御前で恐れおののいたのです(ヘブル人への手紙 12:18〜21)。しかし、イエスに従い通す者に約束された神の臨在という聖い相続財産は、そのようなものではありません。私たちの相続財産は、喜びに満ちた賛美の場所です。それはシナイ山ではなく、シオン山です。そこは天の都であり、天使たちと聖い人々がイエスをたたえ、その栄光を喜んでいる場所です(ヘブル人への手紙 12:22〜23)。やがて崩れ去る定めにあるこの世の一時的な喜びとは違い、それは揺るがされない御国です。そして何よりも、私たちの聖い相続財産は神ご自身です。神こそ、耐え忍んだ私たちへの報いとなってくださるのです(ヘブル人への手紙 13:5)。
その呼びかけは明らかです。一杯のスープのために、聖い相続財産を手放してしまわないようにしましょう。むしろ力を尽くして耐え忍び、信仰の先輩たちが皆そうしてきたように、永遠の都を目指して走り続けましょう(ヘブル人への手紙 12:12〜13)。苦しみや苦難は、聖い相続財産への妨げではありません。それは私たちを神に似た者とし、聖い相続財産にたどり着くために備えてくださる、神のなさり方なのです。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスは、苦しみを耐え忍ぶことが栄光と永遠の相続財産へと通じることの証しです。エサウとは違い、イエスは一時的な快楽のために神の約束を手放すことを拒まれました。むしろ、父の訓練とご自身の生涯に対する父の計画を受け入れ、十字架を耐え忍ばれたのです。そして今、イエスは神の右の座に着き、すべてのものを受け継いでおられます(ヘブル人への手紙 12:2〜3)。その苦しみは無意味ではなく、高く上げられる道を開くものでした。同じように、私たちの苦しみも無駄にはなりません。それは、神聖さと喜びという相続財産にあずかるために私たちを整える、神の愛に満ちた訓練なのです。
この神聖さを追い求める歩みの中で、ヘブル人への手紙の著者は「宿営の外に出て」イエスのもとへ行くようにと告げます。そこはイエスが苦しみを受けられた場所、すなわち都の城壁の外、人々には捨てられながらも神には受け入れられた場所です(ヘブル人への手紙 13:13)。私たちが自らの苦しみの中でイエスの苦しみに出会うのは、まさにそこなのです。私たちを相続財産へと備えるのは、父の訓練だけではありません。何よりも、私たちを罪から清め、イエスとともに相続財産に入る者としてくださるのは、イエスの血です。さらに、都の城壁の外で苦しまれるイエスを見るとき、私たちは自分の苦しみの中で決してひとりではないと知るのです。私たちが最も必要とし、最も望んでいるもの、すなわち神が共にいてくださるという恵みを与えられていると知って、満ち足りることができます(ヘブル人への手紙 13:5、6)。
驚くべきことに、これは旧約聖書の大祭司たちには決して与えられなかった特権です。彼らは地上における神の臨在の中心である至聖所で仕えていました。それでも、イエスにあって私たちには、さらに親しく神の臨在を味わうことが差し出されているのです。祭司たちは、神殿の定められた場所で犠牲をささげ、それを食べることが許されていたかもしれません(ヘブル人への手紙 13:10〜11)。しかし今、イエスによって私たちは、さらに聖い場所へと行きます。それは、イエスがご自身を犠牲としてささげられた場所であり、私たちはそこからいただいて食べるのです。祭司たちが知ることのなかった、イエスとの深い交わりを私たちは経験します。自分自身の苦しみの中で、私たちは都の城壁の外でイエスに加わり、イエスとともにいて、相続財産のために耐え忍ぶのです。試練の中で、イエスは遠くにおられるのではありません。その只中で共にいてくださり、私たちをご自身の聖い姿に似せて造り変え、相続財産を保証してくださるのです。
ヘブル人への手紙の著者が語るように、神は天と地を揺り動かし、何が一時的なものかを明らかにし、永遠のものを残されます。世界は崩れ去りますが、私たちの相続財産は揺らぐことがありません(ヘブル人への手紙 13:14)。イエスは、揺るがされない御国を立てるために、究極の揺さぶり、すなわち十字架の死を耐え抜かれました(ヘブル人への手紙 13:20〜21)。そして今、苦しみが神聖さへとつながり、永遠に神とともに住む者として整えられていく人生へと、私たちを招いておられるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、愛をもって子どもたちを訓練される神を仰ぐことができますようにお祈りします。そして、あなたの神聖な歩みと相続財産を確かなものとするために苦しみを耐え抜かれた方として、イエスを見つめることができますように。

