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ヘブル人への手紙 10章

よりすぐれた犠牲

ヘブル人への手紙 10章から、イエスがただ一度ささげてくださった犠牲によって、私たちが永遠に完全にきよめられた者として、自ら確信をもって神に近づけるようになったことを見ていきましょう。

何が起こっているのでしょうか

ヘブル人への手紙は、主にユダヤ人の読者に向けて書かれました。神はユダヤ人を、聖い者、神ご自身に似た姿と歩みを持つ、より分けられた民として選ばれました。それは、汚れに満ちた世界の真ん中に、きよく完全な共同体を生み出すためでした。この聖い場所において、神の民は神とともにいることができたのです。この共同体の中心にあったのは、神の家の最も聖い場所、すなわち神殿の至聖所に置かれた神の御座でした。この場所を聖くきよく保つために、イスラエルの祭司たちは、死がこの地を覆うたびに、いのちによって地を覆いました。それは、いのちの源である血を、神の住まわれる神殿の中とその周囲に振りかけることによってなされました。これがささげ物の儀式であり、民と、彼らが神とともにいる場所を絶えずきよめるために、毎日、毎月、毎年繰り返されていたのです。しかしヘブル人への手紙の著者は、このすべては、神がイエスにおいて現された最終的な実体の影にすぎないと語ります(ヘブル人への手紙 10:1)。 

影が、それを投げかけている実体のある物を指し示すように、ささげ物の儀式は実体であるイエスというお方を指し示しています。ささげ物の儀式が絶えず必要だったということは、絶えず続く問題があったということです(ヘブル人への手紙 10:2)。毎年、祭司たちが犠牲をささげたのは、毎年、民が罪を犯し続けたからです。年ごとの犠牲は、神に対する反逆がなお続いており、自分たち自身とこの地を聖くない状態にしているという事実を、イスラエルに思い起こさせました。しかし著者は、終わりのない罪の問題は、終わりのない解決であるイエスをも指し示していると論じます(ヘブル人への手紙 10:3〜4)。イスラエルに必要だったのは、罪が生み出した汚れをきよめる道だけではありませんでした。罪を犯し続ける自分たちの心そのものを、永久にきよめる道が必要だったのです。それこそ、イエスの犠牲が成し遂げてくださったことでした。その犠牲はただ一度ささげられました。それは、問題が解決されたということです。一度きりの犠牲であるということは、罪の源そのものがきよめられたということなのです(ヘブル人への手紙 10:8〜10)。ですから、イエスの犠牲によって内側を聖くされた人は、外側においてもますます聖い者へと変えられていきます。   

著者は警告します。外側においてますます罪に汚されていく人は、内側において罪からきよめられていないことを表しているのだ、と。イエスの犠牲によるきよめを拒むなら、もはやその働きを果たせるものは何も残されていません。イエスの血より深くまで届くものはないからです(ヘブル人への手紙 10:26〜27)。著者のユダヤ人の読者たちは、自分たちの聖書から思い起こすべきでした。影であるささげ物の儀式が差し出すいのちによって覆われることを拒んだ者には、死が待っていたのです(ヘブル人への手紙 10:28〜31)。であれば、実体であるイエスのいのちに覆われることを拒む者には、どれほどはるかに恐ろしい結末が待っているでしょうか。 

これほど厳しい警告を語りながらも、著者は、読者たちがイエスのきよめを拒んでいるとは考えていません(ヘブル人への手紙 10:39)。むしろ、彼らの歩みをほめているのです。彼らのうちに、外側に現れた神聖さを見ているからです。著者は彼らを個人的に知っており、その生活の中にイエスのきよめを見てきました。人々の前でのはずかしめ、家財の没収、さらには投獄までも、喜んで耐え忍んできた姿を見てきたのです(ヘブル人への手紙 10:32〜35)。彼らはただ、イエスが報いを携えて再び来られるまで、もう少しの間、忍耐して耐え続けるだけでよいのです(ヘブル人への手紙 10:36〜38)。

福音はどこにあるのでしょうか

神の民をきよめ、内側も外側も聖い者とする犠牲は、やぎや雄牛ではなく、イエスの血です(ヘブル人への手紙 10:4)。神ご自身がイエスというお方となって来られ、私たちが生きるために死んでくださいました。そして、実体であるイエスが内側も外側もきよめてくださるからこそ、神の民は徹底的に聖い者とされるのです。ただ一度ささげられたその犠牲は、私たちがもはや聖くない罪深い者ではないことを証ししています。もしそうであったなら、古い犠牲という影のように、イエスは何度も何度も死なねばならなかったでしょう。しかし、ただ一度、完全に死んでくださったからこそ、私たちは永遠に完全にきよめられていると知ることができるのです。 

影は、祭司が神の御座の間に入る道を備えました。イスラエルが神殿を囲んで神の近くにいられる場所を用意しました。しかしイエスの犠牲は、私たち自身が神に近づくためのきよさと確信を与えてくださいます。イエスは、私たちの罪深い心をきよめ、神の御座の間へと導き入れてくださった、私たちの祭司なのです(ヘブル人への手紙 10:19〜22)。そして最後に、ヘブル人への手紙の著者は、実体であるイエスが再び来られて私たちのもとに至る、その日について語ります(ヘブル人への手紙 10:36〜37)。その日、イエスは私たちとともに住まわれ、私たちもイエスとともに住むのだと確信することができます。その日、至聖所が家に帰って来るのです。その日、私たちはイエスとともにいるのです。 

ご自身の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、最終的な犠牲を与えてくださった神を見ることができますように。そして、ただ一度ささげられたその犠牲によって、私たちを確信をもって神の御前に立たせてくださるイエスを、仰ぐことができますように。 

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