何が起こっているのでしょうか
ネヘミヤはエルサレムの城壁を再建しました。そして同時に、諸国の中でのイスラエルの使命をも建て直したのです。城壁は人々を守るだけでなく、内にいる者と外にいる者とを分け隔てます。イスラエルは聖い民、すなわち選び分かたれ、他とは区別された民であるはずでした(申命記 7:6)。神が特別な愛を注いでくださったからこそ、彼らもまた特別な仕方で神を愛するはずだったのです。そして神の律法は、周囲の世界とどのように異なる者であるべきかをイスラエルに示しました。完成した城壁もまた、同じことを目に見える形で具体的に思い起こさせるものだったのです(ネヘミヤ記 9:2)。
学者エズラが再び物語に登場し、集まった大勢の民の前でモーセの書を読みます(ネヘミヤ記 8:2)。こうしてともに聖書を読んで聴くことが、聖書を学ぶ動きの連鎖を生み出していきます(ネヘミヤ記 8:8)。民は、神の律法が何を語り、自分たちに何を求めているのかを、どうしても聞きたいと願っていました。神が愛してくださったからこそ、その神に従いたかったのです。そして七日間、毎日律法を読んだのち、イスラエルの民は神の律法に従えなかったことを悔い改めます(ネヘミヤ記 8:18〜9:1)。
エズラは、悔い改めの長い公の祈りへと民を導きます。その祈りは神の民の歩み全体を語り直すもので、神が宇宙を創造されたこと、そして全地の中から先祖アブラハムを召し出されたことにも触れています(ネヘミヤ記 9:7)。さらに、荒野での四十年の間、神が食物と水をもって彼らを支えてくださったこと(ネヘミヤ記 9:21)、先祖たちをエジプトから救い出し、約束の地へ導き入れてくださったこと(ネヘミヤ記 9:24)へと続いていきます。
イスラエルの民は自分たちの物語を聞きながら、繰り返し神に対して心を頑なにしてきたことを告白します。追放を招いたのは自分たちの不従順だったと認めるのです(ネヘミヤ記 9:17)。けれども、そのすべてを通して、神は誠実で、恵みに富み、忍耐強く、約束に真実な方でした(ネヘミヤ記 9:31)。神の愛に応えて、イスラエルの民は改めて神に従い、その律法を守ることを誓います(ネヘミヤ記 9:38)。そしてイスラエルの首長たち、祭司たち、指導者たちは、神とネヘミヤの前で契約書に署名しました(ネヘミヤ記 10:1)。新しい城壁が自分たちを他と分かち、神のことばが耳に響く中で、イスラエルは周囲の国々と自らを区別し、愛してくださる神に従うと約束したのです(ネヘミヤ記 10:29)。
福音はどこにあるのでしょうか
神のことばが私たちを聖い者とします。エズラが神の民の物語をイスラエルに読み聞かせたとき、人々は、不従順を重ね続けた自分たちに神が限りなく恵みと慈悲を示してこられたことに心を動かされました。私たちが聖書に向き合うときにも、同じことが起こります。聖書は私たちの罪を示し、私たちを形づくり、神の民へと造り変えていくのです。
そして使徒マタイは、イエスが律法を成就されたと語っています(マタイの福音書 5:17)。イエスの物語と命令を聞き、それを信じることが、私たちを神の民とするのです。神がイエスにあって私たちを特別に愛してくださったのですから、私たちもまた特別な仕方で神に従わずにはいられません。イスラエルと同じように、神がイエスにあって示してくださった恵みと慈悲のみわざを聞き、信じるとき、私たちはますます神の、分かたれた聖い民とされていきます(コリント人への手紙Ⅱ 3:18)。頑なな心を抱き続けてきた者にとっての良い知らせは、イエスの話が私たちの心を溶かし、私たちを聖い者としてくれるということです。律法がイスラエルのためにしたことを、イエスは福音を通して私たちのためにしてくださるのです。
そして今、神の聖い民とされた私たちは、聖霊の力を受けて聖い歩みを生きています(ペテロの手紙Ⅰ 1:15〜16)。私たちは神が選び分かたれた民であり、愛と犠牲という新しい基準に従って生きる者です。私たちを他と分かつしるしは、目に見える城壁ではなく、内に住んでくださる聖霊なのです(エペソ人への手紙 1:13)。神は変わられません。けれども神の民が神のことばに聞くとき、その民は栄光から栄光へと変えられていきます。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、神聖さを求められる神を見ることができますように。そして、十字架の上で私たちのために神聖さを永遠に勝ち取ってくださった、神の聖い方であるイエスを仰ぐことができますように。

