何が起こっているのでしょうか
ヨハネは今、王であるイエスが全宇宙を再創造に向けて整えておられる様子を見たばかりです。イエスは、ご自分の世界の解体をもたらした諸々の力を打ち破られました。そして今、世界を造り直し、二度と世界を解体しようとするすべてのものから、世界を解き放たれるのです。ヨハネの黙示録を通してヨハネは、地上で殺された聖徒たちが天でイエスと共に治めている姿を見てきました。しかし今、イエスが最後に現れるとき、天からのイエスの支配が聖徒たちと共に地へと下って来るのを見ています。この幻の中でヨハネは、ヘブライ語聖書から取られた数々の描写やイメージが、自分の周りで生き生きと現れるのを目にします。これらのイメージは、新しい創造がどのように見えるかを描いているのではなく、それがどのようなものであるかを描いているのです。
ヨハネは、新しい創造の王国に「ないもの」を見ます。もはや海がないことに気づくのです。海とは、神が創造のはじめに最初に秩序づけられた混沌の領域でした(創世記 1:1〜10)。今や、混沌と死をもたらすものはすべて、どこにも見いだされません。この新しい創造には、人を殺す者、偽る者、虐げる者、私たちを神から引き離す者は、だれ一人いません。神の新しい創造は、人とその世界を傷つけるあらゆる悪しき行いから解き放たれています(ヨハネの黙示録 21:8、22:15)。死をもたらす汚れたものが入り込んで人を傷つけることは許されないので、嘆く者も泣く者もいません(ヨハネの黙示録 21:4)。だからこそヨハネは、この新しい創造の門がいつも開かれているのを見るのです。もはや、警戒すべき悪や暗闇の脅威はないからです(ヨハネの黙示録 21:25)。新しい創造に入るのは、王であるイエスに忠誠を誓った諸国の民だけです(ヨハネの黙示録 21:26)。
ヨハネは、新しい創造がどのようなものであるかを見ます。そこに見えるのは、花嫁のように見える都であり、都のように見える花嫁です(ヨハネの黙示録 21:2、9〜10)。都は、神がその民と共に住み、共に治められる、待ち望まれてきた王国を指し示します。花嫁は、神が愛する者と永遠に結ばれる、待ち望まれてきた婚礼を指し示します。都が花嫁であるのは、それが人々から成っているからです。花嫁が都であるのは、そこが私たちが神と共に住む場所だからです。都の門と土台には、イスラエルの十二部族と教会の十二使徒の名が刻まれています(ヨハネの黙示録 21:12〜14)。一方、花嫁は神の名を帯びています(ヨハネの黙示録 22:4)。神の都には人々の名が刻まれ、都の民には神の名が刻まれているのです(ヨハネの黙示録 22:4)。これは、イスラエルの大祭司が身に着けていた、イスラエルの諸部族の名が刻まれた宝石の成就です(出エジプト記 28:9〜21)。それらの宝石は、年に一度、神の御前に携え入れられました。今、その宝石は、神の永遠の、尽きることのない臨在の都そのものを飾っています(ヨハネの黙示録 21:19〜21)。驚くべきことに、都は完全な立方体として描かれています。それは、神の臨在と御座を宿したイスラエルの神殿の至聖所の立方体の形を映し出しているのです(ヨハネの黙示録 21:15〜16、列王記Ⅰ 6:20)。新しい創造において、神の都であり花嫁である存在は、神が住まわれる至聖所となることによって、イスラエルの祭司たちと神殿の役割を全うします。
ヨハネの幻の中心にあるのは、イエスご自身が、永遠の都で永遠の花嫁と共に住むために来られるということです。イエスは花嫁を住まいとし、そしてその花嫁のもとをご自分の家とされます(ヨハネの黙示録 21:3)。かつてイスラエルの神殿を満たした、輝く栄光の神の臨在が、今は都である花嫁を満たします(ヨハネの黙示録 21:11、23)。イエスにある神の栄光は、ご自分の都であるその民と共に、またその民の内に、永遠に住まわれるのです。そしてそこに住むすべての者は、全創造がずっと見ることを切望してきたもの――栄光を受けたイエスの、人としての御顔に現された神の御顔――を仰ぎ見ることになります(ヨハネの黙示録 22:4)。
福音はどこにあるのでしょうか
聖書の終わりは、その始まりを成就します。聖書の物語は、人が園で神と共にいるところから始まりました(創世記 1〜2章)。そのエデンでは、天と地が重なり合っていたのです。しかしそのエデンには昼があり、夜がありました。夜は、なお押し返される必要のあった暗闇を表しています。人はその暗闇のような者となり、命の木に表された、神と共にある永遠のいのちから押し出されてしまいました(創世記 3:22)。しかし今、新しい園には夜がなく、神の永遠の光だけがあります。すべての国の民は、神のように光となったので、命の木に近づくことができるのです。それは、天の光が地の暗闇の中に来てくださったからです。どんな暗闇も押し返すことのできない、この天からの光こそイエスです(ヨハネの福音書 1:4〜5、8:12)。
天と地が一つに結ばれることは、イエスによって成し遂げられました。イエスは神として天を地にもたらし、それによって、人として地を天へともたらすことができたのです。イエスの受肉において、神は天を人のもとにもたらされました。イエスの昇天において、神は人を天にもたらされました。イエスは天と地の両方の王です。天と地にあるすべてのものは、イエスのものです。とりわけ、その花嫁である教会はそうです。新しい創造の王国が来るとき、妻が夫と結ばれるように、また都が王を迎え入れるように、私たちはイエスと結ばれます。イエスにあって、エデンの園は、花嫁と花婿が永遠に共に治める、完全ないのちの都となるのです。
ヨハネの黙示録は、迫害されていた教会が諸国の敵意に耐え、自らのあらゆる汚れを取り除くよう励ますために書かれました。それは、彼らが婚礼の日に備えており、身を整える必要があったからです(エペソ人への手紙 5:25〜27)。ヨハネが示してきたのは、聖徒たちの死はイエスを経験することを妨げるものではなく、むしろイエスの支配に加わるための道であるということです。迫害の中で耐え忍ぶ聖徒たちを励ますために、イエスは「すぐに来る」と言われます。待ち望まれてきた王、待ち望まれてきた夫が、ご自分の都で治め、花嫁と共に生きるために帰って来られるのです(エペソ人への手紙 5:31〜32)。いのちに満ち、死を打ち破るこの王国の希望こそ、迫害された教会が聞く必要のあったものでした。そしてそれは、今日の私たちにも必要なものです。神が私たちに治めさせようと備えておられる都に、また神が私たちをその一部としようと備えておられる花嫁の姿に、希望を置く必要があります(ヘブル人への手紙 11:16、35〜38)。ですから、耐え忍ぶ者は皆この都に加えられ、この花嫁の一部となることを知って、力の限り忍耐し続けましょう(ヘブル人への手紙 12:1〜3)。そしてこの日への備えを整え、聖霊と、先に耐え忍んだすべての人々と共に、「来てください、王イエスよ」と言えるようになりたいものです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、私たちと永遠に共に住もうと計画しておられる神を見ることができますように。そして、すぐに来ると約束してくださるイエスを、その目で見ることができますように。
アーメン。来てください、主イエスよ。

