何が起こっているのでしょうか
ヨハネの黙示録は、イエスの御国の到来を宣べ伝えたために迫害されていた諸教会を励ますために書かれました。幻の中で、殉教者たちがイエスに、いつ復活が来るのか、いつ御国が完全に確立されるのかと問いかけます(ヨハネの黙示録 6:10)。この復活と御国の宣言は、七つのラッパによって導き入れられます(ヨハネの黙示録 8:6)。ラッパは来ようとしている神の国を告げ知らせ、それを聞く人々に、悔い改めて王イエスのもとに集うための機会を、幾度も繰り返し与えます。最初の六つのラッパが鳴ると、かつてエジプトに下った災害が再び下ります。しかもそれは姿を変え、はるかに恐ろしいものとなっています(ヨハネの黙示録 8:7〜9:19)。これらの災害は、悪の力が世に解き放たれることであり、地上にもたらされる破壊によって人々が悔い改めるようにと願ってのことでした。しかし、エジプトのファラオと同じように、人々は悔い改めません(ヨハネの黙示録 9:20〜21)。
そこで神は、いつもそうしてこられたように、来ようとしている御国を宣べ伝え、悔い改めるようにと人々に訴える証人たちを遣わされます。歴史を通して、エゼキエルやダニエルのようなイスラエルの預言者たちは、幻や巻物によって神の国についてのメッセージを与えられました(エゼキエル書 3、ダニエル書 12:4、7)。その言葉のうち、あるものは語ってはならないと命じられ、またあるものは、その時代の支配者たちや民に語るように命じられました。王である神が来られるのだから悔い改めるように、と訴えるためでした。同じように、イエスはヨハネに語りかけます。聞いたことの一部について、ヨハネは語ることを許されません。けれども、神がご計画を必ず成し遂げられるという宣言は、ヨハネが食べる巻物として与えられます。それは、彼が宣べ伝えるべきメッセージであることを意味していました。しかしその巻物は、腹の中で苦くなります。彼より前の預言者たちと同じように、この言葉を語ることは、神の誠実な証人たちがすべてたどったのと同じ迫害と死へとつながっていくからです(ヨハネの黙示録 10:8〜11、11:5〜10)。
そしてヨハネは、教会を二人の誠実な証人として見ます。その悔い改めのメッセージは実を結びますが、それは彼らが苦しみを受け、死んだ後のことでした(ヨハネの黙示録 11:3)。証人が二人であるのは、神の律法が、証言を有効とするために二人以上の証人を求めていたからです(ヨハネの福音書 8:17)。この二人の証人は、イスラエルの歴史を通して立てられた偉大な証人たち、すなわち預言者たちを重ね合わせた姿で描かれています。ゼカリヤ書と同じように、二つの燭台とオリーブの木として描かれ、エリヤのように天を閉じて雨を降らせず、火を呼び下し、モーセのように水を血に変えます(ヨハネの黙示録 11:4〜6)。ヨハネが見た二人の証人は、教会の姿です。教会は、来ようとしている神の国と悔い改めの必要を宣べ伝えるという預言者の役割を受け継いでいるのです。教会の証人たちは、宣べ伝えるという務めを果たし終えるまで神に守られ、その後、イエスと同じように死にます(ヨハネの黙示録 11:7〜10)。しかし、イエスと同じように死ぬからこそ、イエスと同じように復活させられ、そのメッセージが真実であったことが、聞いていたすべての人の前で証しされるのです(ヨハネの黙示録 11:11〜12)。
迫害される教会の誠実な証しを通して、ついにイエスの御国が到来します。教会がイエスとともに治めると、都の十分の一が倒れます。これは、エジプトの力に下された第十の災害の完成であり、神が都の迫害する力を打ち破られたことを示しています。また十分の一、すなわち十分の一のささげ物は、全体が神のものであることを表しています。ですから神は、都の力を征服されるだけでなく、その都に対するご自身の支配を宣言されるのです。そしてそのとき、人々は証人たちが命じたとおりに悔い改め、神に栄光を帰します(ヨハネの黙示録 11:13〜14)。教会が地上でその役割を果たすと、第七のラッパが鳴り、神の国が天から現されます。天が開かれて神の御座が現され、迫害された教会を高く上げ、世界を破壊している力を滅ぼすために神が来られたことが示されるのです(ヨハネの黙示録 11:15〜19)。
福音はどこにあるのでしょうか
七つのラッパは、神が世界の人々に、ご自身の証人たちの声を聞き、悔い改めて神の国に加わるための機会を、忍耐深く何度も与えておられるという良い知らせを告げています。歴史上のすべての証人が指し示し、また従っている証人こそ、王イエスです。イエスも同じ宣言をもって来られました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのです」(マタイの福音書 4:17)。
イエスは、時代を貫くイスラエルの真実で誠実な証人を、その身に体現しておられます。イエスは、モーセにまさる者、エゼキエルにまさる者として来られ、エリヤたちが前もって指し示していたしるしを行われました。王が来られたのだから、御国も確かに到来したことを示すためです。御国の王として、また御国の証人として、イエスはご自分の民を滅ぼしていた力を打ち滅ぼされました。死人を生き返らせ、悪霊を追い出し、罪の力から人々を解き放ち、病と悪の力に捕らわれていた人々を自由にされたのです(ルカの福音書 2:33〜35、7:11〜15、13:10〜17)。そして、その務めを果たし終えると、イエスは、誠実な証人たちがいつもそうであったように、悪の力のもとで死なれました。しかしイエスは死からよみがえり、歴史を通して立てられた誠実な証人たちを、ご自身とともに永遠に生き、治める者としてくださるのです。
いのちこそ、イエスとその御国の誠実な証人すべてに定められた行き着く先です。教会は、地上で御国を宣べ伝えるイエスのからだとして、あの二人の証人なのです(使徒の働き 1:8)。イエスは、甘い巻物であるご自身のことばを私たちの口に入れてくださいました。たとえ迫害が私たちを死の苦さへと導くとしても、私たちはそれを宣べ伝えます(ヨハネの福音書 1:1)。教会は、宣べ伝える務めを果たし終えるまで、ことばとしるしと行いによって、来ようとしているイエスの御国を証しし続けます。そしてあの証人たちのように、私たちもよみがえらされ、誠実な宣言が無駄ではなかったと知るのです(ローマ人への手紙 6:8〜9)。イエスとともに治めるとき、私たちは神の世界を破壊する悪の都を倒します。そしてイエスは、これまでいつも証人たちと共に働いてこられたように、私たちとも共に働き、創造のすべてにご自身の支配をもたらしてくださるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、悔い改めて神の国に加わるようにと世界に忍耐深く呼びかけておられる神を見ることができますように祈ります。そして、ご自身を証しする誠実な証人すべてをよみがえらせるために死んでよみがえられた「誠実な証人」イエスを、見ることができますように。

