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士師記 1〜3:6

下降する螺旋

士師記 1〜3:6には、不従順―罰―叫び―慈悲という繰り返しのパターンが描かれています。イエスは、犠牲をささげる従順と力によって、この循環に終わりをもたらしてくださいました。

何が起こっているのでしょうか

士師記には、二つの序文があります。第一の序文では、ヨシュアの死のあとに、いくつもの征服と敗北が語られます(士師記 1:19)。この敗北は、イスラエルの中で何かが本来あるべき姿から外れていることを示すしるしです。ヨシュアが治めていた間、イスラエルは負けることを知りませんでした。どの戦いにおいても、神が彼らの側に立って戦ってくださったのです(ヨシュア記 1:13)。彼らの従順と信仰があったからこそ、すべての敵はヨシュアの剣の前に倒れていきました(ヨシュア記 23:9)。

ヨシュア以後の部族の指導者たちがことごとく軍事的な敗北を経験するという事実は、ヨシュアの指導を特徴づけていた信仰と従順が失われてしまったことを示しています(士師記 1:27)。イスラエルは神の命令に背き、カナン人を追い出す代わりに奴隷として使いました(士師記 1:28)。そしてやがてイスラエルは、カナンの子どものいけにえや性的な搾取にまで加わっていくことになります。ですから、かつてヨシュアの前に現れた主の使いが、今度はヨシュアの後継者たちに、さばきを覚悟せよと告げるのです(士師記 2:1)。

御使いがヨシュアに語ったとき、自分はイスラエルの側について戦っているのではなく、神の側について戦っているのだと警告しました(ヨシュア記 5:14)。その御使いが士師記で再び現れるのは、もはやイスラエルのために戦うのではなく、イスラエルに対して戦うためなのです(士師記 2:3)。

第二の序文では、この書の残りの部分で繰り返されていくパターンが示されます。神が選ばれた指導者が死にます(士師記 2:8)。するとイスラエルは神を捨て、カナン人の不道徳に加わり、侵略という形で神の怒りを経験します(士師記 2:11、14)。しかし主は、敵の手からイスラエルを救い出し、神の律法を回復させるために、また新たな指導者を立ててくださるのです(士師記 2:18)。そしてこのパターンは、下降する螺旋にもなっていきます(士師記 2:19)。イスラエルの悪は世代を重ねるごとに深まっていきます。ところが不思議なことに、神の慈悲もまた深まっていくのです。

福音はどこにあるのでしょうか

死のあとに不従順が続き、次に神の怒り、そして神の慈悲が続く。このイスラエルのパターンは、イスラエルを試すためのものだと語られています(士師記 2:22)。神は何度も何度も、カナン人の神々を追い求めるのではなく、ご自分に聞き従う機会をイスラエルに与えておられるのです。

けれども士師記の中で、イスラエルは一度もこの試験に合格せず、この循環を断ち切ることもありませんでした。良い指導者がしばらくの間イスラエルを誠実な歩みへと導くことはあっても、その指導者の死によって、イスラエルはさらに螺旋の下へと突き落とされていったのです。

そして私たちも、それがどのようなことかを知っています。私たちの人生も、私たちの教会も、衰えや死、腐敗やスキャンダルを経験します。悲しいことに、多くの牧師や指導者たちがこの試験に合格できずにいます。認めたくはありませんが、その働きの跡から、思いもしなかったほど深いスキャンダルや分裂が明らかになることは決して少なくありません。倒れていくキリスト者の指導者一人一人が、私たちがなお士師記の描くあのパターンの中に閉じ込められていることを証ししているのです。

しかし、この循環を断ち切るさばき司こそイエスです。さばきから私たちを救い出し、神の律法を回復させ、神の慈悲を保証してくださる唯一の指導者は、イエスだけなのです。

それは、イスラエルの指導者たちができなかった――そして私たちにもできない――試験に、イエスが合格されたからです。イエスは神に聞き従い、その生涯においてだけでなく、その死に至るまで従われました(ピリピ人への手紙 2:8)。衰えと腐敗とスキャンダルの力に屈することがなかったので、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました(使徒の働き 13:24)。イエスは今、永遠に生きておられます。暴力や腐敗や虐待ではなく、平和と従順と正義を遺す、永遠の指導者なのです。

自分の忠誠はカナンにもイスラエルにもないと語ったあの御使いのように、イエスもご自分の王国はこの世のものではないと言われました(ヨハネの福音書 18:36)。それは暴力や政治的な力によって勝ち取られるものではなく、神の犠牲的な愛によってもたらされるものです。士師記は私たちに一人の指導者を待ち望ませます。そしてイエスこそ、その指導者なのです。信仰によって私たちは、イスラエルがついに完全には入ることのなかった王国の市民とされています。

イエスの支配のもとでは、神の平和は確かに保証されています。イエスのさばきによって、悪は罪に定められ、虐げられた者は正しいと認められます。イエスの御霊によって、神はこの循環を断ち切り、その民が永遠にご自分とともに治めることができるようにしてくださるのです。

自分の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、ご自分の民を試される神を見ることができますように。そして、神の試験に合格し、ご自分を信頼し愛するすべての人に王国をもたらしてくださる私たちのさばき司として、イエスを仰ぐことができますように。

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