何が起こっているのでしょうか
イスラエルは、ますます深い暗闇へと下っていきます。エフタの指導を覆っているのは、不気味な神の沈黙です。イスラエルは祈りますが、神は答えようとされません(士師記 10:13)。偶像を片づけるそぶりを見せても、神は新しい救い手を起こしてはくださいません(士師記 10:16)。そこでイスラエルは、だれが自分たちを率いるのかと、自分たちの間で論じ合います(士師記 10:18)。そして最終的に行き着いたのが、遊女の子エフタでした。勇士であり無法者でもあるという評判を武器に(士師記 11:3、6)、エフタはイスラエルを治める権利と引き換えに、アンモン人を打ち破ることを承諾します(士師記 11:9)。
イスラエルはこれに同意し、エフタはたちまち、巧みな交渉人であり言葉の名手であることを証明します。イスラエルの敵であるアンモン人は、イスラエルがアンモン人の土地を武力で奪い取ったのだと主張し、それを返せと要求します(士師記 11:13)。しかしエフタは政治的な駆け引きに長け、イスラエルには何の落ち度もないことを外交的に説明します(士師記 11:17〜18)。さらに巧みに、攻撃を受けたのはむしろイスラエルの側であり、正当な戦いによってその土地を得たのだと、アムノンの王に思い起こさせます(士師記 11:20〜21)。エフタの言葉は、イスラエルが侵略の罪を犯しておらず、正当にその地を治めていることを証明します(士師記 11:27)。
しかしアンモン人の王はエフタの交渉を退け、戦いの備えをします(士師記 11:28)。戦場へ向かって進みながら、エフタは神を操ろうとします。勝利を与えてくださるなら、高価な犠牲をささげますと、神に誓いの言葉を差し出したのです(士師記 11:30〜31)。ところが神は沈黙を保たれ、エフタの言葉はやがて彼自身に跳ね返ってきます。主に向かって語った愚かな「言葉」のゆえに、エフタのただ一人の子が殺されることになるのです(士師記 11:35)。
「救い手」としてのエフタの最後の働きは、エフライムとの内戦を引き起こし、四万二千人を虐殺することでした(士師記 12:6)。そしてエフタが死ぬとき、私たちは神のこれまでの型がもう一つ崩れているのを目にします。エフタによる救いのあとに、平和は訪れなかったのです(士師記 12:7)。
福音はどこにあるのでしょうか
エフタが治めていた間、神は沈黙しておられます。イスラエルがあまりにも執拗にほかの神々を追い求めたため、神はついに彼らの望むものを与えられました。自分たちのかたちに似せて造られた指導者と偶像です(士師記 10:13〜14)。エフタの愚かな誓い、人を操るような言葉、そしてそれを実行してしまった悲劇は、自ら招いた沈黙の中に置き去りにされた民の、生きた肖像となっています。エフタが叫んでも、天は答えません。彼の言葉は彼自身に跳ね返り、イスラエルは自分たちの偶像礼拝の実を刈り取ることになります。
私たちの多くも、その沈黙をどこかで知っているのではないでしょうか。神が遠くに感じられるとき、私たちはエフタのように、取り引きをし、交渉し、恐れから約束をしてしまう誘惑を覚えます。しかしエフタの物語は、神が私たちのために意図しておられる型ではありません。本当の型は、十字架において明らかにされます。
十字架の上のイエスを見た人々は、神がイエスに対して沈黙していると思いました。イエスが詩篇 22篇の言葉、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書 27:46)と叫ばれたとき、群衆はそこに見捨てられた者の声を聞き取りました。しかしイエスは絶望を口にしていたのではなく、詩篇 22篇全体を呼び起こしておられたのです。あの詩篇は暗闇の中で始まりますが、神は御顔を隠されず、苦しむ者に必ず答えてくださるという揺るがぬ確信で終わっています(詩篇 22:24)。イエスが最も深い沈黙の中に入って行かれたのは、神が御子を見捨てられたからではなく、堕落した私たち人間の、罪と死の沈黙の中へ自ら踏み込まれたからでした。
そして神は、確かに答えてくださいました。
神はイエスを死者の中からよみがえらせることによって、その叫びに答えられたのです。神の沈黙のように見えたものが、神による正しさの証明となりました。見捨てられたかのように見えたものが、王座への即位となりました。エフタは虚空に向かって語り、何も聞くことはありませんでした。しかしイエスは虚空に向かって語り、父は復活の力をもって語り返してくださったのです。
沈黙の中で希望を求めるなら、神が沈黙されなかったお方に目を向けてみましょう。復活は、神が公正な者の叫びを聞いてくださるという証拠です。そしてイエスにあって、私たちはその公正な者とされるのです。イエスの祈りが聞かれたことが、神が私たちの祈りにも答えてくださるという保証となります。イエスの正しさが証明されたことが、沈黙が最後の言葉ではないという私たちの確信となるのです。
自分の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、時に沈黙を許して偽りの希望を暴き出される神を見ることができますように。そして、その叫びが聞かれ、その復活によって沈黙が破られ、神が決して御顔を背けられることはないとその声で保証してくださるイエスを、見ることができますように。

