何が起こっているのでしょうか?
暴動、殴打、暗殺の陰謀――そうした激しい日々を経て、パウロの生活は総督官邸でのいくらか快適な監禁のもとで、ゆるやかな流れへと変わっていきます(使徒の働き 23:35)。
ルカは、二年以上にわたる裁判と政治的な駆け引きがパウロの運命を決めていく様子を描いています。ユダヤ人の指導者たちは、パウロが神殿を汚し旧約聖書の律法を破る宗教的一派の首謀者だと訴えました。それに対してパウロは、三つの弁明を述べます(使徒の働き 24:5〜6)。
第一に、パウロは、自分が神殿を汚したという告発者の主張を裏づける証拠は何も見つからないことを、当局に思い起こさせます(使徒の働き 24:18)。ルカはすでに同じことを、使徒の働きの中で記していました(使徒の働き 21:27)。
第二の弁明は、律法の遵守についてです。律法を破った罪があるどころか、パウロはかつて、たいへんな熱心さで律法を守るパリサイ人でした(使徒の働き 26:5)。そして今、イエスに従っていることこそが、実は律法を守ることなのです。旧約聖書全体が、約束されたメシアとしてのイエスを指し示しているからです(使徒の働き 26:22〜23)。
第三の、そして最後の弁明は、弁明というよりも一つの譲歩に近いものと言えるでしょう(使徒の働き 24:21)。ユダヤ人たちを憤らせた自分の発言の中で、確かに真実だと言えるものが一つある、とパウロは語ります。それは、死者の最終的な復活への信仰です(使徒の働き 24:15)。それは神が、善人も悪人も、正しい者も正しくない者もよみがえらせ、すべての人に祝福あるいはさばきという最終的な宣告を下される日なのです。
ユダヤ人たちはパウロに対して信頼できる訴えを立てることができませんでしたが、一方でその地のローマ当局も、無能で自己中心的な裁き手であることを露呈していきます。パウロをどう扱い、パウロが語るイエスについてのメッセージをどう判断すべきか、誰も決めかねているようです。
そして二年にわたって政治的な囚人として拘留された末に、パウロはカイザルに上訴します(使徒の働き 25:11)。ローマ市民であるパウロを、当局はローマへ送るほかありません。そこはまさに、イエスの名を宣べ伝えなければならないと神がパウロに告げられた場所でした(使徒の働き 23:11)。
福音はどこにあるのでしょうか?
正しい者も正しくない者も含めた最終的な復活へのパウロの訴えは、この箇所と、パウロが宣べ伝えた福音を理解するうえで欠かせない鍵です。
多くのユダヤ人は、最終的な復活の時に神がこれまで生きたすべての人をさばかれると信じていました(使徒の働き 24:15a)。神のさばきは、偽りの告発、不手際な裁判制度、政治的な私利私欲とは正面から対立するものとして受け止めるべきものです。
イエスが再び来られるとき、主はすべての人を完全に、完全な正義をもってさばかれます(テモテへの手紙Ⅱ 4:1)。官僚的な腐敗も、中傷による事実の歪曲も、司法の無知や偏見や自己利益も、一人一人に対するイエスの判決の正確さを損なうことはありません。
正義は必ず行われる――これが良い知らせです。曲がったことは正されるのです。
パウロは無罪でありながら、裁判にかけられ、尋問されました。自分に向けられた訴えについて「無罪」と宣言してくれる者を必要としていたのです。同じことが、信じる者たちの日々にも起こっています。私たちの敵は、イエスを信じる私たちが無罪であるにもかかわらず、罪に定めようとします。罪がないのに罪の意識を感じさせようとするのです(ローマ人への手紙 8:1)。
しかし、イエスの死と復活という良い知らせにしっかりととどまるとき、私たちは無罪と宣言されます。キリストの光に満たされているからです(使徒の働き 26:23)。私たちの唯一の希望は、この箇所でパウロが支配者たちに切に願ったことを、私たち自身が行うことです。すなわち、イエスを信じることです(使徒の働き 26:27)。キリストのさばきの座には、それ以上の上訴先はありません(コリント人への手紙Ⅱ 5:10)。私たちの訴えの根拠は、ただキリストだけにあるのです。
ご自身の目で見てみましょう
全世界をご自分の完全な正義のもとに置かれる神を見る目が、聖霊によって開かれますようにお祈りします。そして、私たちが受けるべき正義から解き放ち、受けるに値しない恵みを与えてくださる方として、イエスを見ることができますように。

