何が起こっているのでしょうか
神の国はエルサレムと、その分裂した隣人たち――サマリア、ガリラヤ、ユダヤ――に及びました(使徒の働き 9:31)。しかし今、さらに人々を驚かせるようなことが起こっています。それを最初に体験したのがペテロでした。
一連の出来事を通して、神はペテロを、ユダヤ人と異教徒をめぐる「清さ」と「汚れ」についての新しい理解へと導いていかれます。
ペテロは海辺の町ヨッパに着きます。そこは、預言者ヨナが異教徒に神のことばを伝えるという招きから逃れようとした、まさにあの町です(ヨナ書 1:3)。ペテロはタビタというクリスチャンの女性を死からよみがえらせます。彼女の名は「鹿」という意味で、鹿はユダヤ人にとって伝統的に清い動物でした(使徒の働き 9:36、申命記 14:4〜5)。それでいてペテロは、死んだ動物を扱うためにユダヤ人が避けていた皮なめし職人の家に滞在するのです(使徒の働き 9:43)。
神はペテロを少しずつ、ご自分の使命と異教徒と旧約聖書の律法とがどのように結び合わされているのか、その新しい理解へと近づけておられます。
皮なめし職人の家にいるとき、ペテロは清い動物と汚れた動物の幻を見ます。神が「食べなさい」と言われても、ペテロは拒みます。しかし神は驚くべきことばで応じられました。「神が清めたものを、汚れているなどと言ってはいけません」(使徒の働き 10:9〜15)。
その直後、使いの者が来て、コルネリウスという異邦人に会うためにペテロをカイザリアへ招きます(使徒の働き 10:22)。カイザリアはこの地方の首都であり、ローマの権力の中心地でした。これ以上ないほど異邦人の色が濃い場所です。そのコルネリウスの家で、ペテロは福音を語り、五旬節にユダヤ人の上に下ったのとまったく同じように、聖霊が汚れた異教徒の上に下ったのです(使徒の働き 10:44)。
この知らせはたちまち広まり、ペテロは異教徒と交わったことで批判を受けます(使徒の働き 11:1〜4)。しかしペテロが自分の身に起きたことを語ると、弟子たちは神が福音を異教徒にもたらしてくださったことを賛美しました(使徒の働き 11:18)。それに続く物語では、バルナバとサウルがアンティオキアで異教徒に仕える姿が描かれます。そしてこの町で、彼らは初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました(使徒の働き 11:20〜26)。
福音はどこにあるのでしょうか
神はユダヤ人をご自分の契約の民として選ばれました。その一環として、何を食べるべきかについての規定をお与えになりました(申命記 14:2〜3)。汚れた動物を食べれば、彼ら自身が汚れた者となります(レビ記 11:24)。汚れたまま聖いものに触れれば、神の民から断ち切られてしまいます(レビ記 7:21)。神の聖い臨在に近づくためには、まず清められる必要があったのです(レビ記 11:25)。
同じように、異教徒はその汚れのゆえに聖い神に近づくことができませんでした(レビ記 18:24)。ところが聖霊が下ることによって、神のほうが彼らに近づき、彼らを清くしてくださったのです。神が清いと宣言された、ただそれだけで、彼らは清められました(使徒の働き 11:9)。
これが可能となったのは、ひとえにペテロが語った福音のゆえです(使徒の働き 10:39〜40)。清く聖い神が、イエスというお方において、汚れてけがれた世界に近づいてくださいました。イエスは死んでよみがえり、ユダヤ人のためだけでなく、信じるすべての人のために、清めの犠牲をささげてくださったのです(使徒の働き 10:43)。汚れた者を清めるために旧約聖書が求めていた犠牲は、イエスの死においてすべて成し遂げられました(ヨハネの手紙Ⅰ 1:7)。
これは私たちすべてにとっての良い知らせです。自分は汚れていて、清くなく、とても神に近づけないと感じることがあるかもしれません。けれどもイエスは、その死によって私たちを清いと呼び、いのちへとよみがえらせ、御霊によって私たちを聖い者としてくださるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自分から遠く離れた者を選び、近くに引き寄せてくださる神を見ることができるよう祈っています。そして、私たちの汚れを引き受け、ご自身の神聖さを与えてくださる方としてイエスを仰ぐことができますように。

