何が起こっているのでしょうか
迫害が激しくなる中、エルサレムの教会の多くの人々は、ほかの町や国へと逃れていきました(使徒の働き 8:1)。クリスチャンへの暴力の多くを背後で動かしていたサウルは、逃れた信者たちを追跡し、囚人としてエルサレムへ連れ帰ろうとしていました(使徒の働き 9:2)。
ところがその途上、天からの光がサウルの悪しき使命をさえぎります。彼は復活されたイエスに出会うのです(使徒の働き 9:3)。この出来事は、旧約聖書で神が現れた場面を思い起こさせます(出エジプト記 19:9、16)。示されていることは明らかです——イエスこそ主なのです。
サウルが目を見えなくされたのは、彼の霊的な盲目さが目に見える形で表れたものでした(使徒の働き 9:8)。彼にはイエスが本当はどなたであるかが見えていなかったのです。他の人々を傷つけるために町へ入ろうとしていた彼が、今や自分こそ打たれた者となっています(使徒の働き 9:9)。
神は、その地に住むアナニヤというクリスチャンを呼び、サウルに手を置いていやすように命じ、サウルが福音を諸国の民に運ぶ者となると告げられます。アナニヤはサウルを恐れながらも、従いました。するとたちまちサウルは聖霊に満たされ、視力を取り戻し、洗礼を受けます(使徒の働き 9:17〜18)。アブラハムと同じように、神はサウルをすべての国民への祝福となるよう選ばれたのです(創世記 12:3)。福音はエルサレム、ユダヤ、サマリアへと届いていました——そしてこれからサウルたちを通して、地の果てにまで運ばれていくのです(使徒の働き 1:8)。
サウルはすっかり変えられました。福音を消し去ろうとしていた彼が、今はそれを語り告げています。そして不思議な逆転が起こり、今度は彼自身が命を守るためにエルサレムへ逃れなければならなくなりました(使徒の働き 9:20〜26)。クリスチャンを捕らえるどころか、サウル自身がキリストに捕らえられたのです。彼の変化は、ユダヤとサマリアのクリスチャンに平和の時をもたらしました(使徒の働き 9:31)。
福音はどこにあるのでしょうか
サウルの姿に、イエスのいつくしみと恵みが余すところなく現されています。教会に対する頑なな心と殺意のゆえに、燃えるような神の臨在がサウルを打ち倒してもよかったはずです(民数記 17:13)。それにもかかわらず、神はサウルの命を救い、教会は成長していきました。
この場面は、神の力と恵みが、私たちの予想をどれほど絶えず覆すものであるかを浮かび上がらせています。
これは良い知らせです。なぜなら私たちも心の奥底では、アナニヤと同じ恐れを抱いているからです。彼は、サウルは救われるにはあまりに悪すぎる、神に用いられるにはあまりに悪すぎると思っていました(使徒の働き 9:13)。私たちもまた、神やその教会にあまりに敵対しているために、神が良いことのために用いられるはずがない人々、運動、組織がある、と思い込んでしまうのです。
けれども福音は、それが真実ではないと示しています。神はローマという悪の体制と、パリサイ人たちの高慢な運動を用いて、イエスを十字架につけさせました。しかしイエスの死のために用意されたその十字架が、実は全世界に命をもたらすのです。
では、自分がサウルのように思えて、神に救われるにも用いられるにも悪すぎると感じるときは、どうなのでしょうか。サウルの物語が示しているのは、イエスとの出会いが、私たちの中で最も悪い者をも取り上げ、神の選ばれた器へと変えてしまうということです(テモテへの手紙Ⅰ 1:15)。イエスとの出会いは、人殺しを、命を与える者へと変えることができるのです。
どんな背景や過去を持っていようと、私たちは皆、サウルが救われた目的であるその同じ働きを続けるよう召されています。イエスの福音に出会った私たちは今、聖霊に満たされ、イエスについての知らせを地の果てまで運ぶ者とされています。私たちはこの良い知らせを携え行く者なのです。どんな人であっても、何をしてきたとしても、十字架につけられて復活されたイエスの恵みと力は、あなたを救い、神の栄光のために用いることができます。
ご自分の目で見てみましょう
聖霊がサウルの目を開かれたように、あなたの目も開いてくださるよう祈ります。霊的に盲目な者に視力を取り戻してくださる神を、どうか見ることができますように。そして、死さえも命へと変えられるために、私たちと共に苦しんでくださる方としてイエスを仰ぐことができますように。

