何が起こっているのでしょうか
神の民は、廃墟となったままの神殿に神の臨在が戻ってくることを願っていました。神が自分たちのただ中に住んでくださるなら、敵から守っていただけると知っていたからです。しかしゼカリヤは、神の臨在が戻る前に、民の罪を清める祭司が必要だと気づいていました。さらに、神殿再建の働きを導く王も必要です。一連の幻の中で、ゼカリヤは、民が再び神と共にいられるようになるために必要な祭司と王を、神がどのように選ばれるのかを見せられます。
ゼカリヤは、祭司ヨシュアが天の法廷で裁きの場に立たされる幻を見ます。サタンは検察官のように、ヨシュアは汚れすぎていて神の祭司として仕える資格がないと訴えます(ゼカリヤ書 3:1)。しかも、その訴えは的を射ています。ヨシュアの衣は汚れていたのです(ゼカリヤ書 3:3)。けれども神は、サタンに最後の言葉を語らせません(ゼカリヤ書 3:2)。神はヨシュアの汚れた衣を脱がせ、その汚れを象徴的に取り去り、祭司にふさわしい清い衣を着せてくださいます(ゼカリヤ書 3:4〜5)。そして御使いはゼカリヤに、ヨシュアには「若枝」というもう一つの名があると告げます(ゼカリヤ書 3:8)。「若枝」とは、神が約束された最後の王を指す称号です(エレミヤ書 23:5)。ここでゼカリヤは、ヨシュアが、やがて来られる祭司であり同時に神の最後の王となるお方を表していることを悟ります。そしてこの最後の祭司であり王であるお方が、民を清めてくださるのです(ゼカリヤ書 3:9)。
続いて御使いは、同じ現実を別の幻としてゼカリヤに示します。二本のオリーブの木から油が取られ、一つの器に注ぎ込まれます(ゼカリヤ書 4:3)。その油は、神殿に置かれていたような燭台の光を燃やし続けます(ゼカリヤ書 4:2)。この幻は、祭司と王が共に導くことによって神の民が清められ、闇の世にあって光となることを表しています。
最後の幻でゼカリヤは、イスラエルの総督ゼルバベルが神の神殿を完成させるのを見ます(ゼカリヤ書 4:9)。最後の石をはめ込むと、民は喜びの声を上げます(ゼカリヤ書 4:7)。しかし神はゼカリヤに、ヨシュアの無垢もゼルバベルの指導も、神がこれからなさることのしるしにすぎないと告げられます。やがて神は、ただご自身の御霊によって、民をただ一度限り完全に清めてくださるのです(ゼカリヤ書 4:6)。
福音はどこにあるのでしょうか
ヨシュアとゼルバベルの指導のもとで、神殿はゼカリヤの生きている間に完成しました。しかし、神が約束された「若枝」はまだ来ておらず、神の民は、神がついに来てくださり、自分たちを罪から清めてくださる日をなお待ち続けていました。聖書自身、ゼルバベルが神殿を完成させたその日を、ただ「小さな事の日」と語っています(ゼカリヤ書 4:10)。ゼカリヤが幻の中で見た祭司であり王であるお方は、まだ来ていなかったのです。
しかし、イエスこそその「若枝」です。イエスこそ、ゼカリヤが必ず来ると知っていた祭司であり王です。ゼカリヤの幻に登場するヨシュアのように、イエスもまた、より大きな現実を表す衣をまとって裁きの場に立たれました(マルコの福音書 14:55〜56)。イエスは王として装われながら、告発者たちからは治める資格がないと訴えられたのです(マルコの福音書 14:57〜58)。反逆者という汚名を着せられて十字架につけられたイエスは、しかし死からよみがえられました。敵の告発は退けられ、その正しさが明らかにされました。イエスは今、天国にあるご自身の正当な王座に着き、神の国を地にもたらそうとしておられます(エペソ人への手紙 1:20)。
ヨシュアと同じように、イエスは罪のための犠牲をささげる資格を持っておられました。しかしイエスは、私たちの代わりにご自分自身をささげることを選ばれました。それによって、私たちの罪はただ一日のうちに清められたのです(ペテロの手紙Ⅰ 2:24)。イエスは、私たちの最後の祭司であり、最後の王です(ヘブル人への手紙 1:3)。
そして、ご自身の犠牲によって私たちを清め、天国の王座に着いておられるからこそ、イエスは神殿——神がその民と共に住まわれる場所——を完成させることができます。しかもその神殿は、私たちの内に生きているのです(ヨハネの福音書 14:16)。御霊によって、私たちはどこにいても神の臨在と赦しを味わうことができます(ペテロの手紙Ⅰ 2:5)。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自身の民のもとに神の国と臨在をもたらしてくださる神を見ることができますように。そして、その民を清め、神と永遠に共に住む神殿として建て上げてくださる祭司であり王であるイエスを、はっきりと見ることができますように。

