ここで何が起こっているのでしょうか
雅歌の終わりに向かって、抑えきれない慕う思いが高まっていきます。花嫁は再び、愛の園で花婿に身をささげたいという願いを語ります(雅歌 7:12)。
けれども、その願いは文化の制約によって阻まれてしまいます。愛する人への愛情を人前で表せないことを、花嫁は嘆きます(雅歌 8:1b)。兄弟にするように頬に口づけすることさえ、当時は許されなかったようです(雅歌 8:1a)。
こうして花嫁の願いは満たされないままです。満たされることを切望しながら、なお満たされない——この状態は、花嫁がエルサレムの娘たちに繰り返し語る警告によって際立たされています。「愛が目覚めたいと思うまでは、揺り起こしてはいけない」(雅歌 8:4)。
花嫁は再び、その慕う思いの重さに力を失っていくかのようです。長い荒野の旅から帰ってきた者のように、愛する人に身を寄せて支えられています(雅歌 8:5)。
そして、この歌の中でも最もよく知られた言葉のひとつをもって、愛する人に呼びかけます。
自分の心と腕に彼の印を押し、自分が彼のものであると刻んでほしいと願うのです(雅歌 8:6a)。その思いはさらに高まり、花婿への自分の愛は死と同じほど強いと宣言します(雅歌 8:6b)。夫の愛を求めるその激しさは、神ご自身がご自分の民に対して抱かれる、燃え立つねたみの炎のようです(雅歌 8:6c)。地上のすべての水をもってしても、それを消すことはできません(雅歌 8:7)。
最後に花嫁は、自分の愛はどれほどの金銭をもってしても買うことができないと語ります(雅歌 8:7b)。ソロモン王のすべての富をもってしても、花嫁をただひとりの真実の愛から引き離して買い取ることはできないのです(雅歌 8:12)。
歌が頂点に達するとき、私たちは恋人たちの抱擁で締めくくられるのを期待するかもしれません。しかし実際には、満たされない願いをもって歌は閉じられます。この歌の中で何度もそうであったように、夫は再び遠くにおり、花嫁は帰って来てほしいと叫び求めるのです(雅歌 8:14)。
福音はどこにあるのでしょうか
最も偉大な愛する方をうたう、最も偉大な愛の歌は、満たされないままに終わります。この歌は、私たちが神を慕い求めるように——とりわけ、天の夫であるイエスにおいて現された神を慕い求めるように——見事に組み立てられているのです。
私たちの魂が本当に慕い求めているのは、この方です(詩篇 84:2)。
それでも花嫁と同じように、私たちの文化の限界や、当然とされている常識、さらにはこの世界そのものが、私たちの求めを絶えず阻みます。だからこそ、イエスがご自身の愛と私たちがその愛を味わうこととの間にあるすべての壁を打ち破ってくださった、そしてこれからも打ち破ってくださるという事実を、しっかりとつかむ必要があります(ローマ人への手紙 8:39)。
この方の愛は、本当に死よりも強いのです。これはイエスについてのロマンチックな感傷ではなく、確かで揺るがない真実です。私たちへの愛に動かされて、この方は私たちのために死んでくださいました(ヨハネの福音書 3:16)。そして私たちへの愛のゆえに、また御父がイエスを愛されるその愛の力によって、イエスは墓からよみがえられたのです。
この方は私たちのために聖いねたみに燃え、私たちが愛をもって応えることを願っておられます(申命記 4:24)。苦しみも死も、何ひとつとして、ご自身を信じるすべての者に所有の印を押されるこの方を、妨げることはできません(エペソ人への手紙 1:13)。
しかし私たちは、なお再臨を待っています。雅歌と同じように、聖書全体もまた、慕い求める歌、満たされない願いの歌で閉じられます(ヨハネの黙示録 22:17)。あの花嫁のように、愛と期待と賛美に満ちて、イエスを待ち望む者でありたいものです。
ご自身の目で見てみましょう
私たちのあらゆる願いを満たしてくださる神を見る目を、聖霊が開いてくださるよう祈ります。そして、死に至るまで私たちを愛し、再び来て永遠の満たしをもたらしてくださる方として、イエスを見ることができますように。

