ルカの福音書 24章では何が起こっているのでしょうか
この時点でルカの読者が知っているのは、イエスが死んだという事実だけです。その体は亜麻布に包まれて墓に納められ、大きな石でふさがれました(ルカの福音書 23:53)。ルカは自分の書の最後の章で、これから語ろうとする驚くべき主張を、読者の心にしっかりと刻み込もうとしています。
ルカの福音書 24章は、イエスに従っていた数人の女性たちが、ユダヤ人の埋葬に伝統的に用いられる香料と香油を用意するために家へ帰った、という記述から始まります。弟子たちと同じように、この女性たちもイエスが「死からよみがえる」と語られたのを聞いていました(ルカの福音書 9:22)。その行動は愛から出たものでしたが、そこにはある種の盲目さが表れています。
墓に着いてみると、そこは空で、二人の天使が語りかけます(ルカの福音書 24:3)。天使たちは「なぜ生きておられる方を死者の中で探すのですか」と問いかけ、イエスがよみがえると言われたことを思い起こさせます(ルカの福音書 24:6)。もはや復活に対して霊的に盲目ではなくなった女性たちは、この良い知らせを弟子たちに伝えます。しかし弟子たちもまた、新しい霊的な視力を受け取る必要がありました(ルカの福音書 24:11)。
ルカはここで話をいったん中断し、よく似た出会いの場面を挟み込みます。イエスに従う二人が道を歩いていると、復活されたイエスがその横を歩き始めます(24:15)。女性たちや使徒たちと同じように、この二人も初めはイエスだと分かりません(ルカの福音書 24:16)。この弟子たちは福音の出来事の詳細を知っていましたが、その中にあるもっと大きな真理は見えていなかったのです(ルカの福音書 24:19、21)。
天使が女性たちをたしなめたように、イエスも弟子たちを、聖書のことばを忘れていると責められました(ルカの福音書 24:25)。そしてイエスは旧約聖書を順に解き明かし、そのすべてが自分の死と復活を指し示していることを示されます(ルカの福音書 24:27)。物語の頂点で、イエスは超自然的にその目を開き、教えられたことを見て信じられるようにしてくださいました(ルカの福音書 24:31)。
最後にイエスは使徒たちの前に現れますが、彼らもまた見て信じるのに時間がかかりました(ルカの福音書 24:37)。ここでもイエスはその疑いをたしなめ(ルカの福音書 24:38)、自分の死と復活が旧約聖書の全体に見いだせることを示されます(ルカの福音書 24:44)。ほかのすべての人と同じように、イエスが「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」くださるまで、聞いていることを見て信じることはできなかったのです(ルカの福音書 24:45)。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスが私たちの目と心を開いて、見て信じられるようにしてくださるまで、だれもがイエスの良い知らせに対して盲目です。良い知らせとは、求めるなら神が私たちの目と心を開いてくださると約束しておられることです(ローマ人への手紙 10:13)。
弟子たちの心を開いたあと、イエスは彼らに、すべての国民に福音を伝えられるように神が聖霊を送ってくださると告げます(ルカの福音書 24:49)。聖霊は弟子たちにそうしてくださったように、その知らせを聞く人々にも信じる力を与えてくださるのです(使徒の働き 2:4)。
聖霊は私たちが信じるのを助け、疑いに打ち勝たせ、聖書のすべてのうちにイエスを見いだせるようにしてくださいます。目が開かれるにつれて、私たちは聖書全体の中にイエスを見るのです。私たちの罪を赦すために十字架で苦しみ、死からよみがえられたキリストを見るのです(ルカの福音書 24:46〜47)。
よみがえられたイエスを信じることは難しく、自分の罪が赦されていると信じることは、しばしばもっと難しいものです。けれども、そこにこそ、なぜ復活が霊的な視力の問題なのかが示されています。イエスの復活は、語られたこと、成し遂げられたことのすべてを確かなものとします。イエスがよみがえられたからこそ、私たちは救われているのです。
ご自分の目で見てみましょう
聖霊があなたの目を開いてくださり、聖書のどのページにも御子の証拠を満たしておられる神を見ることができますようにと祈ります。そして、その死と復活によって、信じがたいこと——私たちの救い——を成し遂げてくださった方として、イエスを見ることができますように。

