ここで何が起こっているのでしょうか
ユダヤ人の指導者たちは、自分を神の子だと主張したイエスを死刑にしようと決意していました(ルカの福音書 22:71)。しかし問題がありました。自分たちだけでは処刑する権限がないのです。そこで彼らは、イエスをローマに対する政治的な脅威として仕立て上げようとします(ルカの福音書 23:1〜2)。ところが、何度も繰り返しイエスは無罪だと宣言されていくのです。
ピラトは三度も、イエスには何の罪もないと言います(ルカの福音書 23:4、14、22)。ヘロデもまた、イエスは無罪だと認めます(ルカの福音書 23:15)。群衆は「十字架につけろ」と叫び、殺人犯でありテロリストである男の代わりにイエスを殺せと要求します(ルカの福音書 23:18〜19)。イエスが十字架にかけられると、隣にいた犯罪人が、この方は処刑されるようなことは何もしていないと気づきます(ルカの福音書 23:41)。そしてイエスが息を引き取ったその瞬間、十字架刑を監督していた百人隊長は神を賛美し、イエスは無罪であるだけでなく公正な方であったと宣言するのです(ルカの福音書 23:47)。
イエスが預言されたとおり、この方は「道を踏み外した者たちの一人に数えられ」、そのように扱われました(ルカの福音書 22:37)。何一つ悪いことをしていないのに、犯罪人のように死んでいかれたのです。
ヨセフという人が、「備えの日」にイエスを葬りました(ルカの福音書 23:54)。それは、イスラエルが安息日に休むことができるように、仕事の残りをすべて片づけ、食事の用意をすべて整える日でした。イエスのお体も、イスラエルと同じように、安息のために備えられたのです。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスが息を引き取った時、神殿の幕が真っ二つに裂けました(ルカの福音書 23:45)。この幕は、罪深い世界と神の聖い臨在とを隔てるものでした。イエスは無罪であったのに、有罪と宣告され、罪ある者として扱われました。しかしその瞬間、罪人が神の御前に出ることを妨げていたすべてのものが、取り払われたのです。
十字架の上で、イエスは私たちの罪の重みを背負ってくださいました。それは、罪が私たちを支配する力が打ち砕かれ、私たちが道を踏み外すことに対しては死んだ者となり、完全に赦された者として神の御前で生きるためでした(ペテロの手紙Ⅰ 2:24)。
神が六日間働かれ、そのわざが完成した時に安息日に休まれたのと同じように、イエスもその死においてご自身のわざを成し遂げ、安息日に休まれました。パウロは、イエスが死なれたその瞬間に、この方に信頼するすべての人が新しく創造された者とされたと書いています(コリント人への手紙Ⅱ 5:17)。言い換えれば、安息日が終われば、新しい週が始まるのです。イエスが死者の中からよみがえられたということは、神はもう休んでおられないということです。神は今も働いておられ、復活のいのちを差し出し、自分の壊れた姿をイエスに委ねてそのいのちを受け取る人すべてを、新しく創造された者としてくださっているのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
創造し、そして休まれる神を見ることができるよう、聖霊が目を開いてくださいますように。そして、神の御前で生きることのできる新しく創造された者へと私たちを造り変えてくださる方として、イエスを見ることができますように。

