何が起こっているのでしょうか
イエスは王のようにエルサレムに入られます。群衆は歓声を上げ、通り道に自分の上着を敷きました。弟子たちは、イエスこそ待ち望まれていた平和の王だと叫び、歌います(ルカの福音書 19:38)。一方、パリサイ人たちは非難の言葉を投げつけます(ルカの福音書 19:39)。そしてイエスは、ご自身と、ご自身がもたらす平和を拒むことになると知りながら、この都のために涙を流されました(ルカの福音書 19:42)。
神殿に着かれたイエスは、犠牲を売る者たちを追い出し、神の神殿をゆがめた宗教体制を厳しく責められます(ルカの福音書 19:46)。勝利を収めた王のように神殿に入り、新しい定めを立てられるのです。
宗教指導者たちは激しく怒り、イエスとその評判を打ち壊そうとします。三度にわたり、イエスを罠にかけようとする質問をぶつけ、公然とその権威に挑みました(ルカの福音書 20:20)。しかしそのたびに、イエスは質問やたとえ話をもって切り返し、かえって彼らの正当性を崩し、ご自身の正当性を際立たせます。
イエスのたとえ話は、祭司長たちを、自分の利益を守るために人殺しさえいとわない農夫として描き出しました(ルカの福音書 20:19)。またイエスの問いかけには、ついに誰も答えられません。答えれば、イエスが神から遣わされた方だと認めることになるか、あるいはパリサイ人たちの隠された動機が露わになるからです(ルカの福音書 20:5〜6)。恐れを抱いた敵対者たちは引き下がり、もはやイエスに関わろうとしなくなります(ルカの福音書 20:40)。
しかしイエスは、さらに踏み込まれます。メシアとは誰なのかについて問いを投げかけ、彼らはまたも答えることができません(ルカの福音書 20:41、44)。それから、見栄を張る律法学者たちを責め、貧しさの中にいる一人の未亡人を祝福されるのです(ルカの福音書 20:46、21:3)。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスは、ダビデ王に血筋をたどることのできる、ただの革命家の一人ではありません(ルカの福音書 3:31)。イエスは神ご自身なのです。
だからこそイエスは律法学者たちに、どうしてキリストがダビデの子であり、同時にダビデの主でもあり得るのかと問われました。ダビデは王であり、「主」という称号は上に立つ者を意味します。もし息子が自分より偉大な王でないなら、王が自分の息子を「主」と呼ぶことはありません。イエスはここで、ご自身の権威が単に血筋によるものではなく、神から出たものであると宣言しておられます。イエスはダビデの子であり、同時に神の子なのです。
これは良い知らせです。なぜならイエスには、犠牲を売り買いするパリサイ人たちの仕組みをくつがえす権威があり、それに代わるさらに良い道を差し出す力もあるということだからです。王としての権威によって、イエスは敵対者たちの腐敗した仕組みを打ち壊されます(ルカの福音書 20:18)。そして王としての力によって、へりくだる者を高く上げてくださいます。自分では決して手に入れられない赦しを貧しい者に与え、恵みによって無償で差し出してくださるのです。だからこそイエスは、商人たちを追い出されました。その御国では、神に近づくことも罪の赦しも、お金で買うものではありません。レプタ二枚を献げたあの女性のように、持っているものすべてをへりくだって献げることによって与えられるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、王である神を見上げることができますように。そして、今やすべての敵の上にある王座に着いておられる神の子イエスを、はっきりと見ることができますように。

