何が起こっているのでしょうか
旧約聖書では、貧しい人が空腹のときに畑の端の作物を食べることが認められていました(申命記 23:25)。イエスと弟子たちも、この律法を用いて、安息日に麦畑のそばを通りながら穂を摘み取ります(ルカの福音書 6:1)。ところが、パリサイ人たちはこれを問題視しました。彼らは旧約聖書の律法に、自分たちの規定をいくつも付け加えていたのです。その中には、安息日に穀物を集めてはならないという規定も含まれていました(ルカの福音書 6:2)。
パリサイ人たちの安息日の規定はあまりに厳格で、イエスが安息日に手のなえた人を癒されたときにも、彼らは異議を唱えました(ルカの福音書 6:11)。イエスは、神の律法についての彼らの深い誤解を指摘されます。律法はいのちを与えるためのものであり、いのちを差し止めるためのものではないからです(ルカの福音書 6:9)。律法を守ろうとする熱心さの中で、パリサイ人たちは律法本来の目的を見失っていました。それは、神の民が神を愛し、隣人を愛することができるようにするという目的です。イエスは彼らの偽善を厳しくとがめられます。
それからイエスは山で十二人の弟子を集め、山を下りて群衆に教え始められます(ルカの福音書 6:12)。ここにはモーセの姿が重ねられています。モーセもシナイ山にイスラエルの十二部族を集め、神の律法を携えて山を下りたのです。イエスは律法を語りながら、神の国の逆転した姿を際立たせます。それは貧しい人、飢えている人、泣いている人に祝福をもたらし、富む人、満腹している人、笑っている人にはさばきを告げる国です(ルカの福音書 6:20)。そしてモーセと同じように、イエスも隣人への愛こそが神への愛の最も明らかな証拠であると強調されます(ルカの福音書 6:31)。
イエスは、健やかな人は健やかな木のようであり、実を結ぶと語られます(ルカの福音書 6:44)。敵を憎み、惜しみなく与えることを拒み、頑固に赦さず、いつも見返りを期待するとき、私たちは自分が神の民ではないことを示しています。結局のところ、神を愛していないからです(ルカの福音書 6:45)。
福音はどこにあるのでしょうか
神が旧約聖書で律法を与えられたのは、祝福といのちをもたらすためでした。しかし神の民は、それを生きることにくり返し失敗してきました(ローマ人への手紙 7:10)。さらに悪いことに、パリサイ人たちは律法の目的を形だけの遵守にすり替え、そのために共同体の中で困窮している人々を犠牲にしていました。律法そのものは良いものでしたが、律法が意図したとおりに神と隣人を愛する心へと、人を造り変えることはできなかったのです(ローマ人への手紙 7:11〜12)。
しかしイエスは、さらにすぐれた律法をもたらす方です。律法をすべて全うすることによってその目的をことごとく成就し、さらに、新しくされた心へと至る道そのものとなることによって、律法にはできなかったことを成し遂げてくださいます。
イエスは律法のより良い解釈を示しておられるだけではありません。ご自身こそが、よりすぐれた律法であると示しておられるのです。イエスは人々を招き、ご自身のもとに来て、その言葉を聞き、それを行うようにと呼びかけられます。堅い土台の上に建てられた家のように、イエスの言われることを行う人は安らかに住まい、祝福されます(ルカの福音書 6:48)。人生の嵐も、岩の上にしっかりと建てられた家を打ち倒すことはできません。しかし聞いても従わない人は、砂の上に建てられた家のようで、倒れるのを待つばかりです(ルカの福音書 6:49)。
イエスこそ揺るがぬ土台です。そして、イエスを「主」と呼ぶ人々を招き、実を結ぶようにと促しておられます。その実は、文字で書かれた規定にだけでなく、イエスご自身のうちに現された血の通った愛のいのちにも自分が属していることを示すのです。
ご自身で確かめてみましょう
祝福といのちをもたらすために律法を与えてくださった神を見る目を、聖霊が開いてくださいますように。そして、神と隣人を愛する心へと私たちを新しくしてくださる揺るがぬ土台、まことのよりすぐれた律法であるイエスを、仰ぎ見ることができますように。

