何が起こっているのでしょうか
パリサイ人たちは、神の国がいつ来るのかを知りたがっていました(ルカの福音書 17:20)。けれどもイエスは、まっすぐには答えられません。人の子が現れるとき、神は誠実な者たちを滅びの中から取り去ってくださる、とほのめかされるのです(ルカの福音書 17:30)。ノアが箱舟によって救われたように(ルカの福音書 17:26)、弟子たちは「どこへ行けば滅びを免れられるのか」と尋ねます。それに対してイエスは、謎めいた言い方で、彼らの箱舟はご自身の体だと告げられます(ルカの福音書 17:37)。誠実な者たちは、人の子のもとに——その体のもとに——集められることによって救われるのです。
弟子たちは、これが何を意味するのかと不安になります。イエスは弟子たちに、祈り続け、落胆しないようにと励まされます。神は必ず彼らを救い出してくださるのです。しかしそのあと、イエスは声に出してこう問われます。「だが、人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカの福音書 18:8)。
続いてルカは、イエスのたとえ話と出会いの物語を次々に重ねながら、思いもよらない人々こそが神の国を見いだすのだと示していきます。重い皮膚病のサマリア人、一人の未亡人、二人の取税人、盲人、そして騒がしい子どもたちの一団——彼らこそ、神の国に入る誠実な人々の姿を示す模範なのです。ところが、パリサイ人に最もよく似た人物、つまり富に恵まれ道徳的な若い役人は、イエスに従うことよりもお金を選んでしまいます(ルカの福音書 18:24)。要点は単純です。誠実さは、パリサイ人が期待する場所には見つからないのです。
イエスは神の国についてのこの対話を、一つのたとえ話で締めくくられます。ある主人が、遠い国で新しい王位を受けるために旅立ち、その間、財産を召使たちに預けました。帰って来た主人は、誠実な召使たちが賢くその金を運用していたのに対し、不誠実な者はそれが増えるとは考えもせず、ただ埋めていただけだったことを知ります。
不誠実な召使とは、パリサイ人のことです。彼らは主人の惜しみない支配の下で不満をつぶやきます(ルカの福音書 19:14)。自分たちがふさわしくないと見なす人々に、主人の寛大さが注がれることに腹を立てるのです(ルカの福音書 19:25)。放蕩息子の物語に出てくる兄のように、ザアカイのような者が神の慈悲を受けることに、彼らは嫌悪感を抱きました(ルカの福音書 19:7)。イエスは、そのような者たちが滅ぼされることをはっきりと告げておられます。
福音はどこにあるのでしょうか
人の子が帰って来られるとき、誠実でなかった者が受ける結果は、破滅的です(ルカの福音書 19:27)。ソドムを焼き尽くした火や、ノアの時代の洪水と同じように、さばきは避けようがありません。私たちの唯一の希望は、そこから取り去られることです。弟子たちと同じように、私たちもこう尋ねるべきではないでしょうか。「私たちはどこへ行けばよいのでしょう」と。
イエスは、そうは聞こえないかもしれませんが、良い知らせをもって私たちの問いに答えてくださいます。「死体のある所には、はげたかが集まるものだ」(ルカの福音書 17:37)。イエスは猛禽類の習性について語っておられるのではありません。私たちがさばきを免れるためにどこへ行けばよいのかを語っておられるのです。つまり、ご自身の死と、ご自身の体についてです。
イエスはパリサイ人たちに、御国が来る前に人の子が死ぬことになると語られました(ルカの福音書 17:25)。洪水の前に箱舟が造られたように、神のさばきの前には十字架が立てられます。来たるべきさばきを通り抜けて御国へ入る道は、イエスにこそ自分自身をゆだねること——その死と復活に結び合わされること——であり、そうしてイエスが私たちをご自分のいのちと支配のうちに集めてくださる、とイエスは説き明かしておられるのです。ザアカイのように持ち物すべてを差し出し、子どものようにイエスのもとへ駆け寄り、盲人のように慈悲を求めて叫ぶなら、私たちは救われます。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、パリサイ人の高慢をさばかれる神を見ることができますように。そして、私たちをさばきの中からいのちへと通してくださるために、ご自身をささげてくださった方としてイエスを仰ぐことができますように。

