何が起こっているのでしょうか
サウルはダビデを追っています。ある日、よりにもよって、ダビデが隠れているまさにその洞穴に入り、用を足します(サムエル記Ⅰ 24:3)。ダビデの部下たちはみな口々に、神がサウルをお膳に載せて渡してくださったのだとささやきます(サムエル記Ⅰ 24:4)。ところが、ダビデが短刀を手にサウルへ忍び寄り、その上着のすそを切り取ったとき、心に罪の意識を覚えます(サムエル記Ⅰ 24:5)。ダビデはすでに油を注がれ、やがて王となる者でしたが、それでも神が選ばれた王に手をかけることはできなかったのです(サムエル記Ⅰ 24:6)。
そこでダビデは洞穴の外に出て行き、サウルの前に身をかがめます。そして、なぜ自分を追うのかと問いかけます。手にした上着の切れ端が、危害を加える気などないことの証拠でした(サムエル記Ⅰ 24:11)。この裂かれた上着は、かつてサウル自身が預言者サムエルの上着を引き裂いた出来事を思い起こさせたはずです。サムエルはそのとき、王国がサウルから引き裂かれ、もっと立派な人に渡されると預言しました(サムエル記Ⅰ 24:19)。立派なダビデの手にある上着の切れ端は、サウルの終わりが間近に迫っていることを告げるしるしなのです(サムエル記Ⅰ 15:27〜28、24:20)。
次にダビデは、ナバルという気性の荒い有力者に出会います(サムエル記Ⅰ 25:2〜3)。その名は「愚か者」を意味します(サムエル記Ⅰ 25:25)。彼は、富んでいながら愚かな王サウルの姿を映し出す人物で、ダビデが神に油注がれた者であることを認めようとしません(サムエル記Ⅰ 25:10)。ダビデはナバルの財産と働き手たちを守ったのに(サムエル記Ⅰ 25:7)、ナバルはその恩に報いることを拒みます(サムエル記Ⅰ 25:11)。
怒ったダビデは軍勢を集めます。しかし、ナバルの妻アビガイルがダビデのもとに進み出て、復讐は神の救いの方法ではないと警告します(サムエル記Ⅰ 25:26)。武力によって自分を救おうとするこの試みは、洞穴でダビデが味わったのと同じ罪の意識を残すだけなのです(サムエル記Ⅰ 25:31)。悪しき王ナバルのことは、ダビデの手ではなく神ご自身の手が処してくださる、とアビガイルは思い起こさせます。事実、ダビデが待っていると、ナバルは謎の病で死んでしまいます(サムエル記Ⅰ 25:39)。
サウルを殺す機会がもう一度与えられたとき、ダビデは洞穴で語ったのと同じこと、すなわち主に油注がれた者に手をかけてはならないと繰り返します(サムエル記Ⅰ 26:9)。けれども、アビガイルの教訓も学んでいました。サウルを打つのは自分の手ではなく神の手だと知っていたのです(サムエル記Ⅰ 26:10)。ですから、サウル王に語ったと記録されている最後の言葉は、確信に満ちています。神が自分を救い出し、サウルを倒してくださると知っていたからです。間もなく、王座に着くことになります(サムエル記Ⅰ 26:24)。
福音はどこにあるのでしょうか
ダビデには、策略や力によって敵に復讐する機会が三度ありましたが、そのいずれの場合も、そうはしませんでした。最初は罪の意識から、次にはアビガイルの知恵ある取りなしによって、そして最後には、神が自分の戦いを戦ってくださるという確信からです。ダビデは、サウルが自分に用いたような手段に頼る必要がありません。アビガイルはそうした手段を、自力の救いと呼びました(サムエル記Ⅰ 25:31)。神がダビデを王座につけ、サウルの悪をお裁きになるのです(サムエル記Ⅰ 25:29b)。神の国の王座を受けたいなら、ダビデは報復するのではなく、へりくだって自分の戦いと敵を、神の時における神の正義にゆだねなければなりません。
十字架の上で、イエスも同じことをなさいました。ご自分を認めようとしない恩知らずな世に対して、イエスは復讐を求めませんでした。敵対する者たちに報復する道を探すこともなく、かえって彼らを赦し、彼らのために死んでくださったのです(ルカの福音書 23:34)。ダビデが待ち、サウルの悪によって逃亡の日々が続くことを受け入れたように、イエスも神の時における神の正義を待たれました。たとえそれが、悪と暴力によってご自分が殺されるのを許すことであっても、そうされたのです。
ご自分を救うのではなく、イエスは死のうちで待たれました(マタイの福音書 27:42)。しかし、神がサウルの悪に報いてダビデをイスラエルの王座につけられたように、神もまた、イエスを死者の中からよみがえらせ、天の王座に着かせることによって、イエスのために報いてくださったのです(エペソ人への手紙 1:20)。
イエスの昇天は、自分を救おうとせず、代わりに神の正義を待つことこそ、私たちの敵が打ち破られる道であり、私たちが王として治める道であることを証明しています(エペソ人への手紙 2:6)。神の正義とは、死、高慢、愚かさ、罪という私たちの敵が十字架につけられることです。そして神の正義とは、待つ者がイエスとともによみがえらされ、永遠のいのちと天の権威にあずかることなのです(ローマ人への手紙 6:5〜6)。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が、ご自身の手で救ってくださる神を見る目を開いてくださいますように。そして、神を待つことによって私たちの敵を打ち破り、私たちを権威の座へと引き上げてくださる方として、イエスを見ることができますように。

