何が起こっているのでしょうか
サムエル記は、サウル王とダビデ王の興隆と没落を語る書です。イスラエルの部族による指導の時代が終わり、王国が始まっていく道筋が描かれていきます。ところが、その物語は政治的なドラマからではなく、実のならない胎から始まります。混乱と悪に満ちたイスラエルの只中で、ハンナとその家族は、シロで神に犠牲をささげるために、毎年誠実に旅を続けていました(サムエル記Ⅰ 1:3)。
しかしハンナは、子を宿せない自分の胎と、夫のもう一人の妻の残酷さに打ちひしがれていました(サムエル記Ⅰ 1:7)。涙を流しながら神殿に行き、自分を覚えて男の子を与えてくださるようにと、へりくだって神に願い求めます(サムエル記Ⅰ 1:10)。もし神がその祈りに答えてくださるなら、その子を神の神殿での奉仕にささげます、と約束したのです(サムエル記Ⅰ 1:11)。
ところが祭司エリは、ハンナの誠実な嘆きを酔っぱらいの姿と勘違いしてしまいます(サムエル記Ⅰ 1:13)。これは、後にエリが良い祭司ではなかったと明らかになることを、さりげなく示すヒントです。へりくだった祈りと、酔ってつぶやく声との違いを、聞き分けることができなかったのです(サムエル記Ⅰ 1:16)。
やがてエリは自分の誤りに気づき、ハンナの祈りが聞かれるように神に願います(サムエル記Ⅰ 1:17)。すると、神は本当に答えてくださったのです。祈ったとおり、神はハンナを覚え、男の子を与えてくださいました。ハンナはその子をサムエルと名づけます(サムエル記Ⅰ 1:20)。そして約束したとおり、サムエルを生涯主に仕える者としてささげたのです(サムエル記Ⅰ 1:28)。
それからハンナは、歌をほとばしらせます。死んでいた自分の胎に対する神の勝利を喜び(サムエル記Ⅰ 2:6)、夫のもう一人の高慢な妻が低くされたことを主に賛美します(サムエル記Ⅰ 2:3、5b)。そしてハンナは、サムエル記という書物とサムエルの誕生が何を指し示しているのかを思い起こさせてくれます。それは、神が立てられる王です(サムエル記Ⅰ 2:10b)。
福音はどこにあるのでしょうか
ハンナは、自分の実のならない胎と息子の誕生が、単に自分の祈りへの神の答え以上のものであることを知っていました。それは同時に、イスラエルの祈りへの答えでもあったのです。ハンナと同じように、イスラエルもまた実のならない状態にありました。何世紀ものあいだ、敵の手からイスラエルに平和をもたらすことのできる指導者は、一人も生まれていませんでした。高慢な士師たちや不従順な祭司たちに翻弄されるまま、誠実なイスラエルは、死からいのちが与えられることを、辱めの中から高く上げられることを、涙とともに待ち望んでいました(サムエル記Ⅰ 2:8)。
サムエルの誕生は、敗北と辱めに満ちたイスラエルの長い歴史の終わりを告げるしるしです。サムエルの指導の下で、イスラエルはやがて、神の声を聞く預言者と、王座に着く王を持つことになります。神は、弱く、へりくだった一人の子どもの誕生を通して、イスラエルをその高慢と滅びから救い出されたのです。そして神は、イエスにおいて、もう一度同じことをなさいます。
実のならない女性から生まれたサムエルの誕生がイスラエル最初の王の到来を告げたように、処女から生まれたイエスの誕生は、イスラエル最後の王の到来を宣言しました。ハンナと同じように、マリアも希望に満ちて歌います。自分の子が、神は高慢な者を低くし、へりくだった者を高く上げてくださるという証拠なのだ、と(ルカの福音書 1:52〜53)。
サムエルの誕生とその誠実な母がイスラエルにとって良い知らせであったのと同じように、イエスの誠実な母と、へりくだった姿での誕生は、私たちにとって良い知らせです。
イエスにおいて、私たちの祈りは答えられます。神は私たちの痛みを見ておられ、私たちの辱めも見ておられます。そして御子を遣わし、新しい王国を備えてくださいました。しかも神は、何もない胎に生まれたへりくだった赤子として、イエスをお遣わしになりました。それは、辱めを受け、内側が死んだようになっていても、神はあなたを起き上がらせ、生かしてくださる方だと示すためです。イエスにおいて、私たちの実のならない時は終わったのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、あなたの実のならない現実を見ておられる神を仰ぐことができますように。そして、祈りに答え、起き上がらせ、敵を低くしてくださる、神から遣わされた御子としてのイエスを見ることができますように。

