ここで何が起こっているのでしょうか
コリントの教会には、かつて異教徒であった人々が数多くいて、イエスの道を学ぼうとしていました。彼らは、自分の内からコリントの色を抜き、代わりにキリストを内に迎える必要がありました。ところが実際には、以前からの異教的な賛美の習慣やギリシア的な考え方のままでイエスに従おうとしていたのです。ギリシア人たちは、神的なものの深く隠された知恵を誰が見いだしたかを論じ合うことに力を見いだしていました。しかしコリント人が学ばなければならなかったのは、イエスとその十字架の知恵でした。問題は、それが彼らには愚かさと弱さのように思えたことです。こうした混乱の中で、コリントの教会は、自分たちの教会を建てた使徒パウロに手紙を書き送りました。コリント人への手紙Ⅰは、その返答なのです。
イエスの道を学ぶために、コリント人はまず、お気に入りの教師をめぐって分裂する習慣を捨てなければなりませんでした(コリント人への手紙Ⅰ 1:10)。彼らは、話術に秀でたアポロや、人々から尊敬されていた使徒ペテロといった教師たちから学んでいました(コリント人への手紙Ⅰ 1:12)。ところが、まるでアポロとペテロが互いに競い合うギリシアの弁論家か、それぞれ秘められた隠された知恵への別々の道を説く異教の神殿の指導者であるかのように、どちらの知恵が優れているかを争い始めたのです。パウロは、これらの教師たちが互いのライバルではなく、イエスに仕える者であることを思い起こさせます。彼らはコリントの信者たちの中に自分の支持者を集めるために来たのではなく、人々をイエスに従う者とするために来たのでした(コリント人への手紙Ⅰ 1:11〜13)。パウロは、教師をめぐって分裂するのではなく、イエスのもとで一つになるように招きます。さらに、だれから洗礼を受けたかを誇らないようにと勧めます。パウロから洗礼を受けたのだから自分たちはクリスチャンとして特別な立場にあると考えていた人もいたのです。しかしパウロは、真の力はだれが洗礼を授けたかにあるのではなく、その洗礼によって結ばれた方であるイエスから来ることを強調します。そして真の知恵は、好みの教師の弁舌の巧みさの中にではなく、彼らが宣べ伝えているイエスご自身の中にあるのです(コリント人への手紙Ⅰ 1:14〜17)。
パウロと共に働く教師たちは、神の最も深い知恵と力はイエスの十字架刑に現されたと宣べ伝えました。しかし異教のギリシア人の思考には、それは愚かなことでした。彼らが慣れ親しんでいたのは、力と策略にたけた神々を賛美することであって、恥の中で死ぬような神ではなかったのです。また教会の中のユダヤ人にとっても、ローマの圧政の下で死ぬイエスという姿は、抑圧者を打ち倒すメシア、すなわちキリストへの見方と希望とはまったく相容れないものでした(コリント人への手紙Ⅰ 1:18〜24)。けれどもパウロは、十字架につけられたキリストこそ神の知恵と力を証しするのだと指し示します。それは、人間の知恵の枠組みをことごとく打ち破るものだからこそなのです。イエスの知恵が愚かに見えるほど人間の知恵と異なっているなら、それは神から来たものでしかありえません(コリント人への手紙Ⅰ 1:25、2:13〜16)。愚かに思われるにもかかわらずコリント人がイエスの知らせを受け入れたという事実は、神が彼らにご自身の霊を与え、この世がどれほど知恵を尽くしても理解できない神の最も深い知恵を悟らせてくださったことの証しなのです(コリント人への手紙Ⅰ 2:12〜16)。そして彼らはそれを自分の力で理解したのではないのですから、自分自身や教師たちを誇ることはできず、ただご自身の知恵を明らかにしてくださった神だけを誇るのです(コリント人への手紙Ⅰ 1:31)。
福音はどこにあるのでしょうか
神の知恵は、世が愚かと呼ぶものを用い、神の力は、世が弱さと呼ぶものを用います。パウロは巧みな修辞で人を感心させようとせず、十字架につけられたメシアを宣べ伝えました。そしてその知らせは、コリントの中でも人目を引かない、有力でもない、愚かとされる人々に受け入れられ、信じられたのです(コリント人への手紙Ⅰ 1:26〜27)。彼らがイエスを信じるようになったのは、自分の知恵によってでも、パウロの力によってでもなく、神の霊を通してまことの知恵と力が与えられたからでした(コリント人への手紙Ⅰ 2:10〜12)。そしてパウロは、この知らせを受け入れさせてくださった神が、彼らがますますイエスに近く従っていく中で、なお彼らの内に働き続け、その人生を変えてくださると確信しています(コリント人への手紙Ⅰ 1:2〜9)。世の基準では愚か者となり、神の道においては知恵ある者となるとは、十字架につけられたイエスを知恵と力として見ることなのです。
神の働き方は、世にはいつも愚かに見えます。イエスにおいて、究極の力が弱さの中で死にました。究極の知恵が、自ら殺されるに任せたのです。なぜ神的な方が十字架につけられるのか、だれにも理解できませんでした。その真の目的は、世界の始まる前から隠されていたからです。人間であれ悪霊であれ、いかなる支配者も、神がその愛のうちに、弱さと愚かさを通して成し遂げようと計画しておられたことを予測できませんでした(コリント人への手紙Ⅰ 2:7〜9)。イエスにおいて神は、民を救うキリストであると宣言する弱い人間として来られました(マタイの福音書 26:63〜64)。そうすることで、宗教的エリートたち、ローマの権力者たち、そしてその背後で働く悪霊の力に、ご自身を殺す企てを起こさせたのです。彼らがイエスを十字架で死と恥に引き渡すことに成功したとき、彼らはこの「キリスト」と称する者を出し抜いたと思いました。しかし、彼ら全員が欺かれていたのです(コリント人への手紙Ⅰ 2:8)。十字架はイエスに向けて張られた罠ではなく、イエスが彼らに向けて張った罠でした。十字架の上で、イエスは最も強い力の下、最も弱い場所で死なれました。しかし死ぬことによって、死そのものを出し抜かれたのです(コロサイ人への手紙 2:15)。イエスは墓からよみがえり、人々を縛っていた墓の力を打ち砕かれました(ヘブル人への手紙 2:14〜15)。最も弱い場所である墓から、ご自身が最も力ある方であることを示されたのです。そして最も愚かな行為である十字架刑を通して、地上のどんな知恵よりも知恵ある方であることを証明されました。
だからこそ、パウロや彼のような人々は、イエスと十字架について語ることをやめられないのです。ただの漁師や、かつて娼婦であった人々が語る「十字架につけられたキリスト」という知らせは、異教のギリシアの弁論家たちのどんな雄弁よりも深い知恵を差し出します。誇るに値する方は、イエスだけです(ガラテヤ人への手紙 6:14)。どれほど人を引きつける指導者も、どれほど雄弁な説教者も、十字架につけられたキリストより深い知恵を与えることはできません。私たちが「愚かにも」イエスの十字架を受け入れるとき、私たちは知恵深くも神と共に生きる道を受け入れ、死と悪の勢力に打ち勝つのです。イエスは、共にご自身を求める者として私たちを互いに結び合わせてくださいました。そして頂点として、御霊を与えることによって、神の知恵であるご自身と私たちを結び合わせてくださったのです。
ご自分の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、その愚かさが世のすべての知恵よりも知恵深い神を見ることができるようにと祈ります。そして、十字架刑によって諸々の力を欺かれた方として、イエスを仰ぐことができますように。

