何が起こっているのでしょうか
パウロはコリントの教会に、厳しい内容の手紙を書き送ってきました。知識についての誤った考え、あちこちに広がる分裂、公然と行われている性的な不品行、主の晩餐を汚す行い、キリスト者の賛美に異教の儀式を持ち込むこと、聖霊の賜物の乱用、そして復活を否定する態度——そのすべてを問いただしてきたのです。それにもかかわらず、ここでパウロはコリント人を「聖い」と呼びます。コリント人は、イエスのような者とされるために選び分けられた、神の民なのです(コリント人への手紙Ⅰ 16:1、15)。ですからパウロは、コリントの教会への結びの言葉の中で、一見ありふれた日常の事柄を用いながら、彼らをその神聖な歩みへと励ましていきます。
まずパウロは、競い合いと貪欲へと傾くコリント人の性質に、はっきりと抗います。手紙の中で何度も指摘してきたように、コリントの教会は、どの指導者が好きか、どの知恵が最もすぐれているか、どの聖霊の賜物が望ましいか、さらには誰が富んでいて誰が貧しいかということまで、言い争っていました。そうした分裂とは対照的に、パウロは彼らに、献金を一つに集めて教会の働きを支えるよう思い起こさせます(コリント人への手紙Ⅰ 16:2〜3)。惜しみなく自分の持ち物を出し合うことは、分裂を癒し、神聖な歩みへと導く、目に見える具体的な道なのです。しかも、その惜しみない施しはコリントの教会だけでなく、ほかの教会をも一つに結びます。ガラテヤの諸教会も、この惜しみない施しに加わっているのです。パウロは惜しみない施しを通して、コリントをすべての教会との聖い一致へと招いています。
次にパウロは、近い将来コリントを訪ねる計画を伝えます(コリント人への手紙Ⅰ 16:5〜7)。彼は今エペソにいて、そこには敵意と反対があります。しかしパウロは、だからこそエペソにもっと長くとどまるのだと言います。今直面している反対こそが、実り豊かな働きを生み出すからです(コリント人への手紙Ⅰ 16:8〜9)。同じことがコリントでも起こっており、パウロはそこでも実り豊かな働きを期待しています。コリント人が経験している苦闘は、彼らの神聖な歩みを脅かすものではなく、むしろそこへと導くものなのです。
さらにパウロは、コリントの教会がよく知っていた三人の指導者——テモテ、アポロ、そして彼らの間から出たステパナ——に触れながら、一致と神聖な歩みへの呼びかけを続けます。パウロは、若い指導者テモテが訪ねて来たときに、心から迎え入れるように告げます。コリントでは、若い者は年長者に導かれるものでした。ですからテモテがきちんと受け入れられるように、パウロは長老たちに、自分に払うのと同じ敬意を、へりくだってテモテに払うよう求めるのです(コリント人への手紙Ⅰ 16:10〜11)。続いてパウロは、彼らのお気に入りの教師の一人であるアポロにも、訪問するよう勧めてきたと述べます(コリント人への手紙Ⅰ 16:12)。これは、パウロとアポロがコリント人の思っていたような競い合う指導者ではなく、彼らへの献身において一つであることを示しています。最後にパウロは、ステパナのような人々を重んじ、その人たちに従うようにと語ります。ステパナはおそらく富み、人々から尊敬され、自分の家でキリスト者の集会を開いていた指導者でした。ところがパウロは、ステパナの奴隷であったと思われるアカイコの名も挙げます(コリント人への手紙Ⅰ 16:15〜18)。こうしてパウロは、主人とともに奴隷をも重んじ、いつも分裂の線引きにしていたその境目を越えて一つになるよう、コリント人に迫っているのです。
福音はどこにあるのでしょうか
結びの言葉の中でパウロが示してきたのは、コリント人がどれほど壊れた状態にあっても、イエスと、その教会と、その方が立てた指導者たちは、彼らが神聖な歩みへと進むことに心を注いでいるということです。
パウロのコリント人への献身がそうであるなら、神の人類への献身は、それとは比べようもないほど、限りなく確かなものです。神は私たちを求めることに徹しておられ、ついにはイエスというお方となって私たちのところに来てくださいました。地上でイエスは、聖くない者、ふさわしくない者とともに過ごし、その人たちを訪ねられました(ルカの福音書 5:30〜31)。敵意と反対のある場所を、あえて実り豊かな働きの場とされたのです(マルコの福音書 5:1〜15)。そして究極の、最も惜しみない行為として、イエスはこの世の聖くない罪人たちのために、ご自身の聖い体と血を与えてくださいました(マルコの福音書 10:45、14:22〜24)。
今、世界中の教会が、ご自身の民を聖い共同体として造り上げようとされるイエスの献身を、生き方として表していくのです(コリント人への手紙Ⅰ 16:19〜21)。惜しみなく分け合うこと、互いに従うこと、互いを訪ね合うこと——そうした日常のささやかな事柄を通して、私たちはイエスのように聖い者とされていきます。
パウロがコリント人に語った言葉は、私たちへのメッセージでもあります。パウロをはじめとする教会の指導者たちがコリントを訪ねようとしていたように、イエスももうすぐ私たちのところに来てくださるのです(コリント人への手紙Ⅰ 16:22〜24)。ですから、聖い者として歩みましょう。分裂、競い合い、貪欲、そしてあらゆる罪から自分を守りましょう。私たちの内に神聖な歩みを形づくろうとされるイエスの、決して揺らぐことのない追求に、希望と信頼を置いて堅く立ちましょう(テサロニケ人への手紙Ⅰ 5:23〜24)。そして何よりも、すべてを愛をもって行いましょう(コリント人への手紙Ⅰ 16:13〜14)。イエスを愛し、その教会を愛すること以上に聖いものは、何もないからです。
ご自身で確かめてみましょう
ふさわしくない私たちをそれでも求めてくださる神を見る目が、聖霊によって開かれますようにお祈りします。そして、もうすぐ来てくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。

