何が起こっているのでしょうか
コリントは、数々の神々に心を注ぐ町でした。コリント人がその神々と交わる手段の一つが、神殿の祝宴でささげられる犠牲でした。こうした食事は単なる食べ物ではなく、賛美の行為だったのです。神殿で食事をすることは、ただの夕食ではなく、神と食卓を共にすることを意味しました。そして今、イエスに従う者となったコリント人のクリスチャンたちは、イエスと交わるための新しい食卓に着いたのです。ところが、そこに不一致が生まれていました。ある人たちは、こうした異教の食事を続けても自由だと感じていました。一方で、異教の祭りとのつながりを思わせるものすべてに心をかき乱され、市場で売られている肉を食べようとしない人たちもいました。偶像に供えられた肉についての見解の違いが、教会の一致を損ない、イエスとの交わりを危うくしていたのです。
使徒パウロは、肉を食べる自由を感じている人たちに、ほかの人のためにその自由を制限するようにと語ります。ある信者たちが偶像に供えられた食物を自由に食べられると考えたのは、偶像礼拝を通して不当に賛美を受けてきた霊的な存在はいるにせよ、それらすべてをお造りになった至高の創造主なる神は、イエスにおいて示されたただひとりの方だけだと知っていたからです(コリント人への手紙Ⅰ 8:4〜6)。神がすべてをお造りになったのですから、偶像に供えられた肉も含め、神が造られたものはすべて味わうことができるというわけです(コリント人への手紙Ⅰ 10:26)。しかし、そうした偶像に囲まれて育ったコリント人の教会の多くの人たちは、あの食事と結びつくものすべてに心をかき乱されました(コリント人への手紙Ⅰ 8:7)。仲間のクリスチャンが偶像に供えられた肉を食べているのを見れば、異教の神々と交わってもかまわないのだと思ってしまうかもしれません(コリント人への手紙Ⅰ 8:8〜12、10:28)。そこでパウロは、食べる自由を感じているコリント人に、ほかの人をつまずかせないよう自分を制限することによって、仲間のクリスチャンを愛するよう命じるのです(コリント人への手紙Ⅰ 8:13、10:23〜31)。愛とは、ほかの人が救われるために、進んで自らの自由を制限するものだからです。
この知識を持つコリント人に自由を制限するよう求めた上で、パウロは自分自身がどのように自由を制限してきたかを示します。使徒であり、福音を語る者として、パウロにはその働きのために教会から支えられる自由と権利がありました(コリント人への手紙Ⅰ 9:1〜12)。けれども彼はその自由を用いず、自分で生活を支える道を選び、福音を無償で語り伝えたのです(コリント人への手紙Ⅰ 9:13〜18)。パウロは神以外のだれにも責任を負わないのですから、あらゆる律法や慣習から自由です。それでも、ユダヤ人の間にいるときには自由を制限し、ユダヤ人の律法にしたがって食事をします。異教の人々の間にいるときには、ユダヤ人の食物規定をわきに置いて、彼らと共に食卓に着きます(コリント人への手紙Ⅰ 9:19〜23)。愛のゆえに、ほかの人が救われるために自らの自由を制限しているのです。制限された自由のもう一つの例として、パウロは競技者を挙げます。競技者は賞を得るために体を鍛えようと、自ら進んで自由を制限します。パウロにとっての賞とは、できるだけ多くの人を救うことでした。ですから彼は、その人たちを得るためなら、どんな自由でも喜んで制限するのです(コリント人への手紙Ⅰ 9:24〜27)。
続いてパウロは、神との交わりと偶像との交わりが両立しないことを示すために、イスラエルの歴史から一つの例を語ります。エジプトでの奴隷状態と偶像礼拝から解放されたイスラエルは、荒野で神と交わりました。神は天からの奇跡のパンで彼らを養い、岩から水を出してくださったのです(コリント人への手紙Ⅰ 10:1〜4)。これは神との霊的な食事でした。ところがその後すぐに、イスラエル人は偶像を造り、異教の祭りを行いました。それが彼らの滅びにつながったのです(コリント人への手紙Ⅰ 10:5〜7)。パウロはこのことをコリント人に結びつけます。彼らは主の晩餐において、神との真実な霊的な食事にあずかっているのです(コリント人への手紙Ⅰ 10:16〜17)。それなのに出かけて行って異教の偶像と食事をするなら、イスラエルと同じ過ちを犯し、同じ滅びの危険にさらされることになります(コリント人への手紙Ⅰ 10:12、21〜22)。パウロはこれらの例を、コリント人の信者たちへの警告として、また励ましとして用いています。この戦いに直面しているのは彼らだけではありません。神の民の歴史は、こうした誘惑に満ちています。そして神は、ご自身との真実な交わりを与えることによって、偶像との交わりから抜け出す道を備えてくださるのです(コリント人への手紙Ⅰ 10:11〜13)。
福音はどこにあるのでしょうか
パウロは、自分がキリストにならっているように、自分にならってほしいとコリント人に語ります(コリント人への手紙Ⅰ 11:1)。そしてキリストの示された模範とは、こういうことです。真実の愛とは、ほかの人のために自分の自由を捨てることなのです。
イエスほど自由な方はおられません。永遠であり、無限である神なのですから。それでもイエスは、私たちのために自由を捨て、人としての弱さと貧しさ、飢えの中を生きてくださいました。全宇宙の至高の支配者が、私たちを救うために仕える者となられたのです(ピリピ人への手紙 2:5〜8)。イエスは人として生きられただけでなく、人として死んでくださいました。ご自分のからだと血を私たちに与え、その方にあって私たちがまことに神と交わることができるようにしてくださったのです(ヨハネの福音書 6:54〜57)。
イエスはいつも、ご自身を民に与えてこられました。荒野でイスラエルを養われたのは、この方です。彼らに水を与えた岩であり、彼らを養った天からのパンでした(コリント人への手紙Ⅰ 10:4、ヨハネの福音書 6:51)。そして今、主の晩餐を通して、イエスは再びご自身を私たちに差し出してくださいます。パンと杯をいただくたびに、私たちはイエスと交わるのです(マタイの福音書 26:26〜28)。神とのこの食事において、私たちは神と一つにされ、互いにも一つとされます(コリント人への手紙Ⅰ 10:16〜17)。
だからこそパウロは、この結びつきを危うくしてはならないとコリント人に語るのです。イエスの食卓に席が与えられているのに、どうしてほかの食卓に着く必要があるでしょうか。神ご自身との交わりへと招かれているのに、それに及ばないものとの交わりを求める必要があるでしょうか。
パウロは彼らに、そして私たちに、自由を自分本位に用いるのではなく、互いへの愛のゆえに自由を捨てるよう勧めます(コリント人への手紙Ⅰ 10:31〜33)。ほかの人には難しいような形で、神の良い賜物を楽しむ自由が与えられているかもしれません。けれどもキリストにあっては、ほかの人をつまずかせるものなら何でも手放すという、さらに大きな自由が与えられているのです。ですから、イエスとの一致、また互いの一致を損なうものは、どんなものでもわきに置いていきましょう(コロサイ人への手紙 3:5〜11)。競技者のように、忍耐をもって走り続けましょう。私たちが目指している賞は、確かであり、それだけの価値があると知っているからです。この賞――イエスご自身との交わり――を得るために、私たちは何でもわきに置くのです。
ご自分で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自分の民をご自身との深い交わりへと招いてくださる神を見ることができますように。そして、そのいのちにあずかることができるようにと、すべてを捨ててくださった方として、イエスを見ることができますように。

