ここで何が起こっているのでしょうか
山の上でイエスの姿が栄光に輝いたとき、神はイエスをご自分の子だと宣言されました。その後、イエスは「子」にまつわる二つの出来事に出会われます。
一つ目は、てんかんの息子をいやしてほしいと願い出た父親の場面です(マタイの福音書 17:15)。自分の弟子たちにその子をいやすことができなかったと知って、イエスは嘆かれました(マタイの福音書 17:17)。そして、発作を引き起こしていた悪霊を追い出したあと、弟子たちの失敗は信仰が足りなかったからだと説明されます(マタイの福音書 17:20)。イエスによれば、ご自分に対するほんの小さな種ほどの信仰があれば、不可能なことは何もないというのです。びくともしない山に「動け」と命じれば、その通りになる、と。
この直後、イエスは再びご自分の死を予告されます。これは、前の場面で問われていた信仰の問題に、そのまま結びついています。弟子たちは、イエスが死んでよみがえらなければならないということを信じていませんでした(マタイの福音書 16:22)。そこでイエスは、彼らの信仰が向かうべき対象、すなわちご自分のこれからの死と復活へと、彼らの目を向けさせるのです。
「子」にまつわる二つ目の場面では、イエスとペテロが神殿税について語り合います。この税は二十歳から五十歳までの男子が納めるもので、ユダヤ人の神殿を維持するために用いられていました。イエスは、王が自分の子どもから税を取り立てるだろうか、と問いかけられます。当然、答えは「いいえ、そんなことはしません」です。
イエスが言っておられるのは、この税は神殿、すなわち神の家のためのものだ、ということです。ご自分は王の子なのですから、その税を納める義務はありません。それでもイエスは、ペテロを遣わして魚を釣らせ、その魚の中に二人分の税を納めるお金が見つかると約束されました(マタイの福音書 17:27)。こうしてイエスは、人々をつまずかせることを避けつつ、神の子としてのご自分の比類ない力を示されたのです。
福音はどこにあるのでしょうか
この世界には、誰ひとり動かすことのできない山が一つあります。それは、避けようのない死へと向かう登り坂です。しかし、てんかんの息子の話にあったように、イエスに対するわずかな信仰さえあれば、私たちは病にも、そしてサタンにも勝利を得ます。そのどちらも、死へと人を導くものです。
イエスが十字架へと向かい、私たちの病、罪、そして死そのものの中にまで完全に入って来てくださったと信じるとき、私たちはその勝利にあずかることができます。イエスは私たちの壊れた姿を墓にまで負って行き、復活によってそれを打ち破ってくださいました。だからこそ私たちは、病の支配からも、悪魔の圧迫からも、墓からも、のがれることができるのです。その一部は、神の国が到来しつつある今すでに起こっていますが、そのすべてが完全に実現するのは復活の時です(ヨハネの黙示録 21:4)。
税についてペテロと語られたとき、イエスは「子どもたちは自由だ」と言われました。そのあとに起こった奇跡は、イエスの分を払うだけのものではありません。ペテロの分も払われたのです。後に起こるイエスの復活も、イエスおひとりの新しいいのちにとどまりません。イエスに従うすべての者にとっての新しいいのちとなるのです。イエスの救いのみわざのゆえに、イエスを信じる者は誰でも、神の家族として迎え入れられました(エペソ人への手紙 1:5)。
ヨハネの手紙Ⅰ 3:1にはこうあります。「私たちが神の子どもと呼ばれるとは、父がどれほど大きな愛を注いでくださったことでしょう。事実、私たちは神の子どもなのです。」イエスを信じる者は誰でも、今や王の息子、娘です。その人たちもまた、自由です。罪から自由です。律法から自由です。死から自由です。イエスが言われたとおり、「子どもたちは自由」なのです。
自分の目で確かめてみましょう
ご自分の子どものように私たちを愛してくださる神を見る目を、聖霊が与えてくださいますようにと祈ります。そして、私たちを神の息子、娘としてくださる方として、イエスを見上げることができますように。


