何が起こっているのでしょうか
マタイの福音書 12章で、マタイはその地の宗教指導者たちとイエスとの間に生じた緊張を描いています。
宗教指導者たちは、休むことを命じた安息日を破っているとイエスを責めます(マタイの福音書 12:2)。それに対してイエスは、神殿の祭司たちは安息日にも働いているではないかと指摘されます(マタイの福音書 12:5)。そして今ここに、安息日よりも神殿よりも偉大な方がおられるのです。
このことを際立たせるように、イエスは安息日の礼拝のために会堂へ行き、そこで手のなえた人を癒されます。それは当時、働くことと見なされていた行いでした(マタイの福音書 12:10)。
パリサイ人たちは、イエスの癒しの力は悪霊から来ていると主張します(マタイの福音書 12:24)。しかしイエスはサタンの力を用いているのではなく、神の霊によって働いておられるのです。
聖霊の働きの証拠は、その行いの結果——癒しと悪霊の追い出し——にはっきりと現れていました。良い実は良い木を指し示します(マタイの福音書 12:33)。イエスは、ご自分こそその良い木であると言われます。神の霊の実は、イエスが肉体をとられた神であることを証明しているのです。一方パリサイ人たちは悪い木であり、良い実を結ぶことも、それを見分けることもできませんでした(マタイの福音書 12:34)。
宗教指導者たちは、自分がメシアであることを証明せよとイエスに迫ります(マタイの福音書 12:38)。しかしイエスが約束されたのは「ヨナ書のしるし」だけでした(マタイの福音書 12:39)。預言者ヨナが三日間大魚の腹の中にいたことに触れながら、イエスはご自身の復活を予告されたのです。復活こそ、イエスが何者であるかを示す最後の証拠となります。
それでも彼らは信じません。自分たちをソロモン王のように知恵ある者だと思っていましたが、イエスは彼らに、今ここにソロモンよりも偉大な方がおられると告げられます(マタイの福音書 12:42)。
福音はどこにあるのでしょうか
パリサイ人たちの非難はイエスには当てはまりませんが、私たちには当てはまります。罪人はみなサタンの支配の下にあるのです(エペソ人への手紙 2:2)。 けれども、私たちがイエスに信仰を置くとき、聖霊が私たちを良い木としてくださり、信仰の良い実を結ぶことができるようにしてくださいます(コリント人への手紙Ⅰ 12:3)。
モーセの律法は、悪い木を良い木に変えることなどできませんでした(ローマ人への手紙 12:3)。安息日に休みなさいという命令は、安らぎを知らない私たちの心に安息を生み出すことはできなかったのです。
私たちには律法よりも偉大なものが必要でした。イエスは、その真に必要な方はご自分であると宣言されます(マタイの福音書 12:41)。イエスは安息日よりも偉大です。その安息は永遠に続き、私たちのために勝ち取られ、ただ受け取るだけでよいものだからです。イエスは神殿よりも偉大です。建物ではなく、一つの体として神が現に臨んでおられるからです。
イエスはヨナよりも偉大です。ヨナのように、一つの町へ遣わされる神の使者として魚の腹から出てきたのではありません。イエスは神ご自身であり、すべての国民のもとに届くために墓の腹から出てこられた方なのです。
そしてイエスは、神殿を建てた知恵あるソロモン王よりも偉大な方です。 イエスは王の王であり、神の知恵そのものであって、肉体をとられた神なのです。
ご自身の目で見てみましょう
律法を通し、神殿を通し、そしてヨナのような人々を通してご自身を現された神を仰ぐことができるよう、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、イエスこそそのすべてよりも偉大な方——神の最後の、そして完全な啓示であられる方——として見えてきますように。


