何が起こっているのでしょうか
マタイの福音書は、イエスの誕生の記事から始まって、イスラエルで最も名高い指導者の一人であるモーセとイエスを重ね合わせてきました。モーセはイスラエル人を奴隷の状態から導き出し、荒野を通ってシナイ山まで導きました。そこで神はイスラエルと契約を結び、モーセを通して、イスラエル人が守るべき律法をお与えになりました。律法とは、神の契約の中でどのように生きるかを神の民に示す教えだったのです。
マタイの福音書では、イエスは4章で荒野を通り、5章で山に登られます。これは偶然ではありません。ここでもイエスは、神からの新しい言葉をもたらす「新しいモーセ」として描かれています。ただ決定的に違うのは、イエスが神ご自身であるという点です。7章の終わりで群衆が気づいているように、イエスは権威をもって語られます。そしてその教えは、新しい契約における生き方についてのものなのです。
イエスはまず、一見して祝福されているようには見えない人々への祝福を語り始められます。心の貧しい人、悲しんでいる人、迫害されている人です。神の国では、神をもっと求めて飢え渇いている人こそが、その願いを満たされるのです。
さらにイエスは、神の国の民が、この世の流れに逆らうような生き方をすることで、周りの人々がそれに気づき神をあがめるようになる、と語られます。ちょうど燭台の上のともしびが光を放つように。 同時にイエスは、神の国に生きる者は自分の栄光のためではなく神の栄光のために生きるのだと警告されます。そして6章では、この謙遜な神の国の信仰と、「会堂にいる偽善者たち」の人目を引き自分を大きく見せようとする行いとを比べておられます。こうした人たちは、人々の間に仕えて神があがめられるようにするのではなく、人に見られるために神を賛美しているのです。イエスは聞く人々に、人の称賛という地上の報いを求めるのではなく、天に蓄えられている報いがあることを信頼するようにと励まされます。
イエスの教えは、神が私たちの行いと同じくらい心を大切にしておられることを示します。たとえば、イエスは六度にわたって「あなたがたは聞いています…」と言ってモーセの律法の命令を引用し、その後で「しかし、わたしは言います…」と続けられます。そのたびに、イエスは命令の核心に迫り、あるいははっきりとそれを改められます。殺人は怒りから始まり、姦淫は情欲から始まります。敵は憎むのではなく愛すべき相手です。都合次第で離婚に終わってよい結婚など、一つもありません。イエスは律法よりもさらに先へ私たちを導き、もっと深く私たちに迫られるのです。
全体として見ると、イエスの教えは、神の国が私たちの生活のあらゆる部分を根本的に変え、そこに影響を及ぼすことを示しています。イエスは権威をもって、私たちの日々の生活と思いの世界について、祈る言葉と人をさばく心について、私たちが口にする理由と抱え込んでいる心配について語られます。
そして結びにイエスは、これらが学ぶためだけの教えではないことを強調されます。それは生きるための教えなのです。聞く者は、イエスを信頼して、教えられたことを実際に行うところまで進んでいくのが賢明でしょう。聞いても何もしないのは、砂の上に建てることです。聞いて、その教えと教える方とを信頼するなら、確かな土台を見いだすのです。
福音はどこにあるのでしょうか
何世紀にもわたって、ユダヤ人は神がモーセにお与えになった律法を守り通すことができませんでした。ですから、イエスが「わたしは〔律法や預言者を〕廃止するために来たのではなく、成就するために来たのです」と言われたとき、それはユダヤ人にとって(そして異教徒にとっても)良い知らせの宣言でした。イスラエルにも、ほかのだれにもできなかったことを、イエスが成し遂げてくださるのです。
それだけではありません。イエスは、ご自身がお与えになった神の国の命令を、ご自身で成し遂げられました。敵のために死ぬことによって、敵を愛されました。十字架の上で迫害されながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。ローマの兵士に打たれたとき、頬を向けられました。イエスはこの教えを与えるだけの方ではありません。私たちに代わってそれを生き、この新しい神の国のいのちへと私たちを導いてくださるのです。
イエスの従順によって、私たちは罪に閉じ込められたままではなく、キリストの義へと変えられていきます。ガラテヤ人への手紙 3章は、クリスチャンをキリストを着た者として描いています。「天国におられる父が完全であるように、完全でありなさい」という言葉に生きられる道は、これしかありません。イエスは私たちの罪に打ち勝ち、ご自身のいのちを私たちに分け与え、ご自身の完全さへと導いてくださるのです。
これはまた、イエスが私たちの狭い道であるという意味でも良い知らせです。人生を滅ぼす道はいくつもありますが、回復させる道はただ一つです。私たちを迷わせる誘惑は数多くありますが、人が救われる名はただ一つです。そして良い知らせとは、イエスによって、私たちが本当に救われるということなのです。
イエスはまた、私たちの堅い岩です。人生には嵐や苦しみが襲ってきます。窓が音を立て、柱がきしむこともあるでしょう。それでも岩は動きません。イエスは揺るがされることのない救い主、変わることのない希望、そして確かな主です。イエスに信仰を置くことは、今日のため、そして永遠のための最も確かな足場を見いだすことなのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、天国におられる完全な父である神を見ることができますように。そして、律法を成就し、ご自身の従順の上に私たちの人生を建てさせてくださる方として、イエスを見ることができますように。


