ここで何が起こっているのでしょうか
弟子たちは、心に燃えるような問いを抱えてイエスのもとに来ます。「天国で一番偉いのは誰なのでしょうか」。イエスはその答えとして、一人の子どもを呼び寄せられました(マタイの福音書 18:2)。当時、子どもは社会的な地位が高くなく、重んじられる存在ではありませんでした。イエスは、自分を低くすることこそ王国で偉くなる道だと語られます(マタイの福音書 18:4)。
私たちは子どものように低い立場を取るだけでなく、低い立場にいる子どもたちを大切にするようにも招かれています。それは、子どもたちが罪から遠ざかるよう助け、神へと導くことを含んでいます(マタイの福音書 18:6)。羊飼いが自分の羊を心にかけ、一匹が迷い出れば探し求めるように、私たちも子どもたちを大切にするのです(マタイの福音書 18:12)。
イエスは罪の危険についても語られます。信仰の仲間が罪に陥ったなら、教会はその人を正し、悔い改めるなら赦すべきなのです。
するとペテロが尋ねます。「兄弟を何回赦せばよいのでしょうか」。イエスは「七回を七十倍するまで」と答えられました。これは「数えるのをやめなさい」と言うのに等しい言い方です。
イエスはこの点を強調するために、一つのたとえ話をされます。ある主人が、召使いの数え切れないほどの負債を赦してやりました。ところがその召使いは、自分に対するわずかな借金を赦そうとしなかったのです(マタイの福音書 18:28)。この物語が照らし出しているのは、神の赦しこそが私たちの赦しを押し出す力だということです。赦さないとき、私たちは、神にどれほど大きく赦されたかを本当につかんでいないことを示してしまうのです。
福音はどこにあるのでしょうか
この箇所にある二つのたとえ話は、私たちが互いに、そして子どもたちにどう接するべきかを教えています。しかしそれだけでなく、イエスがご自分の子どもである私たちをどう扱ってこられたかも示しているのです。
イエスはご自身を、九十九匹の羊を残して迷い出た一匹を探しに行く羊飼いとして描かれます。イエスは天国と、無数の天使たちの交わりを後にして(マタイの福音書 18:10)、この十二人の弟子たちを招くために来られました。つまるところ、イエスこそ、一匹一匹の羊を追い求めてくださる良い羊飼いなのです。
イエスはまた、召使いの負債を赦す王にもたとえられています。イエスは天の王であり、私たちが負っている負債は地上の通貨などではなく、支払いようのない罪の重さです。それでもイエスはこの負債を私たちに負わせたままにはされず、ご自身の死と復活によって完全に取り消してくださいました(コロサイ人への手紙 2:14)。この方のうちにあって、私たちは自由にされているのです。
神の王国において力と地位を持っておられるのは、イエスだけです。それでもこの方は、子どものような私たちを探し求め、誘惑から救い出し、迷った羊のように助け出し、数を数えることなく何度も何度も赦してくださいます。
しかもイエスは、そのすべてをご自分の権利を捨てることによって成し遂げられました。神であるというご自身の身分を、苦しみを避けるために用いることはなさらず、私たちを救い助け出すために、どこまでも低くなられたのです(ピリピ人への手紙 2:8)。
ご自分の目で見てみましょう
迷い出た子どもたちを追いかけてくださる神を見る目を、聖霊が開いてくださいますように。そして、支払いようのない私たちの負債を取り消し、ご自分の家族として迎え入れてくださる方として、イエスを見ることができますように。


