はじめに
毎年、教会はイエスの昇天に続く十日間を、祈りをもって共に過ごします。その間、弟子たちは五旬節に与えられる約束の賜物、聖霊を待ち望んでいました。今、私たちも彼らと共に待つことを学びます。御霊の新しくしてくださる働きを慕い求めながら、聖書に流れる一つのパターンをたどるのです。すなわち、神は高く昇って統べ治め、人々を聖霊で満たし、ご自分と共に治める者としてくださる、ということです。
私たちはこれまで、王座に着かれた神が人間をご自身の霊で満たされたこと、そして敵対する勢力が偽りの王国を打ち立て、人間を死に服させたことを見てきました。また、王として昇られ、人間の招きを回復してくださるイエスに従ってきました。マリアと弟子たちと共に屋上の間に集い、祈りつつ待つ姿勢を学びました。十二人が再び完全な形に整えられる様子も、共に見守ってきました。
ここで物語を少しさかのぼり、この期間におけるイエスの中心的な命令に目を向けてみましょう。それは「待ちなさい」という命令です。この命令は、父が御霊を与えてくださるという約束の上に立っています。
父の約束を待つ
使徒の働きには、イエスが「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」と命じられたとあります(使徒の働き 1:4)。王座に着かれた王は、弟子たちを満たす前に遣わすことはなさいません。マリアが処女のまま身ごもった経験からよく知っていたように、御国は人間の力ではなく、神の賜物によって来るのです。
待つことは、被造物が創造主の前に取るべき本来の姿勢です。待つとは、神が王であり、私たちがその僕であると告白することにほかなりません。神を待ち望むとき、私たちは昇られたイエスの王としての支配のもとで、第七日の安息に入るのです。待つことは、御国を上からの賜物として受け取り、バベルのように力を奪い取ろうとする反逆を退けることです。
使徒の働きの中で、イエスは弟子たちが何を待つのかをはっきりと告げられます。それは聖霊です(使徒の働き 1:5)。父の約束とは、神ご自身にほかなりません。昇られたイエスの御国でご自分と共に治めるために、神の民を満たしてくださる、神ご自身の臨在なのです。
ヨハネの備えの洗礼
イエスはこの約束を、バプテスマのヨハネと結びつけられます。ヨハネの働きはすべて、悔い改めて待つようにという招きでした。ヨハネは荒野に現れ、長く待ち望まれてきた神の王を迎えるためにイスラエルを整えました。人々に悔い改めるよう呼びかけ、神の支配を迎える備えをさせたのです(マルコの福音書 1:1-8)。備えと悔い改めのしるしとして、多くの人が洗礼を受けました。人々は水に入り、敵対する王国を後にして、清められ、天の王を迎える備えのできた者として上がってきたのです。
イエスが洗礼の水から上がられたとき、聖霊が下り、父はイエスこそ選ばれた神の子であると証しされました(マルコの福音書 1:9-11)。
ですからイエスは弟子たちに、ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受けることになる、と告げられます(使徒の働き 1:5)。洗礼のときにイエスの上に御霊が下ったのとちょうど同じように、今度は弟子たちの上に御霊が下るのです。
共に待ちましょう
御霊に満たされた後、イエスは行く先々で神の国を宣べ伝えられました(マルコの福音書 1:14-15)。宣べ伝える言葉と奇跡を通して、ご自分が王であること——神ご自身の臨在が地に来られたこと——を示されたのです。そして弟子たちも、この同じ御国の力にあずかることになります。王が昇られたので、御国はすでに来ています。弟子たちは御霊によってその働きを受け継いでいくのです。
待つ中で、教会は依り頼むことを学びます。待つ中で、神は私たちの心を、敵対する王座から御自身へと向け直してくださいます。待つ中で、神の民は御霊を受ける備えをするのです。
祈りの導き
御霊に満たされ、昇られた王であるイエスが弟子たちに教えてくださったとおりに、父の約束の賜物を求めて祈りましょう。
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるとおり、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、自分に負い目のある人を赦しました。
私たちを誘惑に会わせないで、
悪からお救いください。
国と力と栄えは、限りなくあなたのものだからです。
アーメン。
