何が起こっているのでしょうか
イスラエルはシナイ山を出発し、約束の地へと向かいます。ところが、旅立ってすぐに罪を犯してしまうのです。
民は神に向かって不満をもらします(11:1)。神は怒られ、宿営のはずれで火が燃え上がります。民はモーセに何とかしてほしいと願い、モーセが祈ると火は収まりました(11:2)。
これが、民数記を通して何度も繰り返される循環です。民は命令を受け、それに背き、神が罰し、だれかがとりなします。実際、この二つの章だけでも、この循環は三度も繰り返されます。二度は民との間で、一度は指導者たちとの間で起こるのです。
けれども、この物語にはもう一つ、心に留めたい出来事があります。モーセは重荷に押しつぶされそうになり、いっそ自分を殺してくださいと神に願うほどでした(11:15)。しかし神には別の計画がありました。
神はモーセに七十人の長老を立てさせ、モーセの上にあった聖霊の一部を彼らにも分け与えられます(11:17)。すると七十人の長老たちはたちどころに預言し始めました。ただし、それはその一度だけでした。
一方、宿営の別の場所では、エルダデとメダデという二人にも神が霊を与えておられました。そして彼らは預言を続けたのです(11:26)。人々がこのことをモーセに訴えると、モーセは、主の民全員が聖霊を受けて預言する者となってほしい、と答えました。
福音はどこにあるのでしょうか
驚くべきことに、このモーセの願いは実際にかなえられます。
イエスが天に昇られた後、聖霊が最初のクリスチャンたちに下りました(使徒の働き 2:4)。彼らは聖霊の力によって福音を伝えます。そして人々がイエスを信じると、その人にも聖霊が下り、七十人の長老たちと同じように、預言などのしるしが現れました(使徒の働き 19:6)。
しかも、その賜物はそこで終わりませんでした。エルダデとメダデのように、続いていったのです。イエスの最も身近な弟子の一人ペテロは、信じるすべての人に聖霊が下り、若い者も年老いた者も、奴隷も自由な者も、皆が夢を見、幻を見、預言するようになると語りました。まさにモーセが願ったとおりです(使徒の働き 2:17)。
ですから、使徒パウロがコリント人への手紙第一の中で、皆が預言する者となってほしいと書いているのも、モーセの願いの響きそのものなのです(コリント人への手紙第一 14:5)。
今日、預言は誤解され、議論の的にもなっていますが、その中心点についてはすべてのクリスチャンが一致できるのではないでしょうか。預言とは、神が明らかにしてくださったことを他の人に分かち合うことです。そして神がこれまでに明らかにされた最も偉大なことは、イエスにおいてご自身がどのようなお方であるかを、余すところなく示してくださったことです。聖霊はイエスを信じるすべての人に下り、神がどのようなお方かを示してくださいました(コリント人への手紙第一 2:10)。
ここにある良い知らせは、イエスがその死によって私たちを買い戻し、ご自身の聖霊で私たちを満たしてくださったからこそ、民数記に描かれている罪の循環を断ち切ることができる、ということです。肉に従って歩むことをやめ、御霊に従って歩み始めることができるのです(ローマ人への手紙 8:9)。そうして私たちの生活も唇も、イエスの名を預言するものとなっていきます。
ご自身の目で確かめてみましょう
この聖霊が目を開いて、とりなしを備えてくださる神を見せてくださるように祈っています。そして同じ聖霊が、あなたのためにとりなしてくださるイエスのお姿を、より豊かに示してくださいますように。

