何が起こっているのでしょうか
民数記 7章〜10:10は、出エジプト記の終わりでモーセが幕屋を完成させたあの瞬間へと立ち戻る回想の場面です。物語が中断していたところから語り直し、神の家が建てられた後に何が起こったのかを見せてくれます。
最初の場面は、美しくもあり、また繰り返しに満ちてもいます。イスラエルの十二部族がそれぞれ同じ供物を幕屋に携えて来て、その供物の内容がすべて十二回――各部族について一度ずつ――記されているのです(民数記 7:78〜83)。読み進めるのに時間がかかりますが、そこには深い意味が込められています。どの部族も、神の指示に完全に参与しているということです。これは単なる儀式ではなく、関係そのものでした。それぞれの部族が祭司を通して、きよめと賛美と食事の交わりに、神とともに入っていったのです。イスラエルは、ごく小さな細部にまで及ぶ従順をもって、神のご臨在に応えています。
今回、結末は出エジプト記とは違っています。供物が捧げられた後、モーセは幕屋に入り、契約の箱の上から語られる神の声を聞くのです(民数記 7:89)。イスラエルの賛美が、親しい交わりのための場所を開きました。神はご自分の民の間に住まわれ、語り合う道が開かれているのです。
民数記 8章では、レビ人が同じ道をたどります。彼らもイスラエルの他の人々と同じように、穀物の供物ときよめの供物を捧げます。ところがそこで、他にはないことが起こります。イスラエル全体が彼らを囲んで集まり、その上に手を置いて、神への特別な供物として聖別するのです(民数記 8:10〜11)。イスラエルは、自分たちに代わって神の前に出るために、祭司たちを取り分けているのです。祭司たちは、イスラエルの死をいのちで覆うために働きます。しかし他の供物とは違って、レビ人は焼き尽くされることはありません。彼らは生きているのです。生きた犠牲として幕屋で仕えるために、神にささげられているのです(民数記 8:19)。それでもなお、犠牲は捧げられます。イスラエルがレビ人に手を置くと、レビ人は雄牛の頭に手を置くのです(民数記 8:12)。雄牛は、レビ人の死をいのちで覆うために取り分けられます。
その結果は目を見張るものです。民全体が、神の神聖なあり方と調和するところへと導き入れられるのです。ささげられた供物も、立てられた代表者たちも、その賛美も受け入れられます。そして神は、彼らの間に住み続けてくださるのです。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルの供物とレビ人の聖別の物語は、私たちがイエスによって神に近づく、その道筋を指し示しています。
レビ人とは違い、イエスは自分の死をいのちで覆うために、いかなる犠牲も捧げる必要がありませんでした(ヘブル人への手紙 7:27)。イエスには罪がなく、この世に死を持ち込むこともなかったからです。ご自身において完全にきよく、聖い方でした。むしろイエスは、私たちの死を覆うために、ご自分のいのちを捧げてくださるのです。私たちがイエスに自分自身をゆだねるとき、私たちはイスラエルがレビ人に対してしたことをしているのです。私たちの死をご自分のいのちで覆うために取り分けられた祭司として、イエスを受け取っているのです。
しかしイエスはまた、私たちをこの世における祭司として取り分けてくださいます。レビ人のように、私たちも自分のいのちを神に捧げているのです。私たちは今、生きた犠牲です(ローマ人への手紙 12:1)。初代教会は、イエスに新しく従い始めた人々の上に手を置き、聖霊の幕屋として仕えるために彼らを取り分けることを行っていました(使徒の働き 8:17)。イエスはご自分の教会を通して、私たちの人生に御手を置き、取り分け、そして世へと遣わしてくださいます。私たちはもはや傍観者でも、外にいる者でもありません。イエスにあって、私たちは神のご臨在に仕える者、その新しい幕屋の祭司、エデンの使節なのです。
ご自身で確かめてみましょう
私たちの従順を受け入れ、私たちのいのちを聖別し、ご自分の民の間にご臨在を知らせてくださる神を見ることができるよう、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、私たちを近くに引き寄せ、愛のうちにご自身を捧げ、神の聖いご臨在の生けるしるしとして私たちを世へと遣わしてくださる方として、イエスを見ることができますように。

