何が起こっているのでしょうか
民数記は、民がヨルダン川を渡って約束の地に入る前に、神が命令をお与えになる場面で締めくくられます。
民数記の初めのところで、神はレビ人を幕屋の周りに配置されました。それは神の民のために聖い緩衝地帯を設け、天幕の周囲が聖なる場所であることを、だれの目にもはっきりと示すためでした。
しかし民がその地に入れば、散らばって住むことになります。そこで神は、割り当てられたいくつかの町の四方に、レビ人の家畜のための土地を提供するよう、すべての部族にお命じになります(35:4)。
レビ人は、諸部族を囲む聖い緩衝地帯としての役割を続けるとともに、約束の地の全体が今や聖なる場所となったという事実を、だれの目にもはっきりと示す存在となるのです。
神が与えられる二つ目の命令は、殺人者への処罰についてです。殺された人の血は地を汚し、その汚れのためには贖いがなされなければなりません。そして贖いの道はただ一つ、殺人者の血が流されることだけなのです(35:33)。
ただし、事故によって人が死んだ場合には、その原因となった人は隠れ家の町に逃げ込むことができ、「血の復讐をする者」と呼ばれる被害者の最も近い親族から守られます。
民数記を閉じる最後の命令は、結婚が土地の相続にどう影響するかについてです(36:3)。結婚によって土地がある部族から別の部族へ移ってはなりません。この規定が守られやすくなるように、民は自分の部族の中で結婚するよう教えられます。そうすれば、そもそもこの問題が起こることさえないからです(36:6)。
一つの書物の終わり方としては、少し不思議に思えるかもしれません。けれどもこれは、イスラエルが必ずその地を所有するという確かさを指し示しています。同時に、その地は神のものであり、神がその地で彼らとともに住まわれることを、イスラエルに思い起こさせているのです。
福音はどこにあるのでしょうか
さらにこれらの命令は、福音がそれらをいくつもの形で高め、成就させることをも指し示しています。
割り当てられた町に住んだレビ人のように、クリスチャンは自分が住むどの町においても祭司として生きます。内に聖霊が住んでくださっているので、私たちが行くところどこでも、ふつうの場所が聖なる場所へと変えられていくのです(コリント人への手紙Ⅱ 5:20)。
これは究極的には、イエスが再び来られ、その臨在によって全地を満たされるときに成就します(ハバクク書 2:14)。代理となる者も、目に見える印も、もう必要ありません。イエスご自身が、いつでもそこにおられるからです。
隠れ家の町についても、一緒に考えてみましょう。イスラエルでは、血の復讐をする者には、罪のない者の血を流した者を追いかける権利が、神から与えられていました。そして人類は実際に、考えうる限り最も罪のない血、すなわち神の子イエスの血を流したのです。ペテロが五旬節の日に群衆に語ったとおりです。「あなたがたは……このイエスを、律法を知らない者たちの手で十字架につけて殺した」「その血の責任はあなたがたの上にある」(使徒の働き 2:23、36)。どう考えても、神にはこの血の復讐をする者として行動される権利があります。しかし福音の驚くべき展開は、人類がまさにイエスを殺害しているその瞬間に、イエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことです(ルカの福音書 23:34)。私たちを罪に定めるはずだった血が、かえって私たちをきよめる血となりました。門が大きく開かれた隠れ家の町のように、イエスご自身が、私たちの血の罪が洗い流される場所となってくださったのです。そこでは、血の復讐をする者が、罪に定めるのではなく「赦すことにおいて正しい」方であることが示されます(ヨハネの手紙Ⅰ 1:9)。信仰によってイエスのもとへ走り込む人はだれでも、死ではなく、隠れ家と赦しといのちを見いだすのです。
イエスは結婚と土地に関する律法も成就されます。信仰によってイエスと結婚し、その花嫁とされている私たちは、イエスが再び来られるとき、イエスとともに全地を相続します(ヨハネの黙示録 21:2)。イエスは私たちを、その永遠の隠れ家の町へと連れて行ってくださいます。そこで花嫁である私たちは、イエスとともに永遠に生きるのです。
ご自分の目で確かめてみましょう
どのような壁を越えなければならないとしても、私たちの間に住むことを願われる神を見ることができるよう、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、イエスとともにあの約束された相続へと私たちを導き入れるために必要なすべてを、ついに成し遂げてくださった方として、イエスを仰ぐことができますように。

