何が起こっているのでしょうか
イスラエルはシナイ山を出発し、カナンの地へ入ろうとしています。神は奴隷の身から民を救い出し、契約を結び、幕屋をご自身の臨在で満たしてくださいました。そして今、旅を進めるにあたって、その臨在を中心に生活を整えるようにと命じられます(民数記 1:1、2:1〜2)。
幕屋は単なる賛美のための天幕ではありません。それは移動するエデン、天が地に触れる場所です。神の神聖さがその中心に宿っています。霊的な腐敗と激しい敵対に満ちた地へと進軍していくイスラエルにとって、幕屋はいのちと無垢、そして神の秩序の聖所として先頭を進むのです。
この聖なる中心を守るために、一つの部族に特別な役割が与えられます。レビ族は軍務のための人口調査には数えられませんでした(民数記 1:47〜49)。諸国民を追い出したり、敵の町を征服したりする務めは彼らには与えられていません。代わりに、宿営が移動するたびに幕屋を管理し、担ぎ、組み立て直すことが任されました(民数記 1:50〜53、2:17)。ほかの誰も、それに触れることは許されていません。
この分離には欠かせない意味があります。イスラエルが荒野に入り、戦いの中で死に直面するときにも、幕屋は汚れに触れることなく保たれるのです。レビ族は、戦争と荒野の死の只中で、神のご臨在が損なわれないように守り続けます。彼らはいのちに仕える者であり、エデンの聖い場所が場所から場所へと誠実に運ばれていくよう支えるのです。
幕屋を囲むように、十二部族は東西南北の四方に宿営するよう定められました(民数記 2:3〜31)。その配置は秩序があり、聖く、象徴的な意味を帯びています。その隊列の先頭に立つのはユダで、幕屋の入口である東側に配置されました(民数記 2:3〜9)。長子ではないにもかかわらず、ユダが先導するのです。これは何世代も前にユダに語られた祝福——彼が抜きん出て、兄弟たちの間で治める者となる、という約束——の成就でした(創世記 49:8〜12)。
福音はどこにあるのでしょうか
この宿営の配置は、神がイエスを通してご自身の御国を前進させてくださる、そのあり方を前もって描いています。
神のご臨在は今も中心にあります。しかし今は、イエスを通して、そのご臨在が一つの天幕に閉じ込められることはありません。イエスこそまことの幕屋となられた方、肉となられた神であり、行かれるところどこにでもエデンのいのちをもたらされました(ヨハネの福音書 1:14)。復活の後、イエスは御霊を送ってくださいました。それは、レビ族のように、ご自身の民がその臨在を地の果てまで運んでいくためでした。
イエスはまた、まことのレビ人でもあります。イエスは汚れから身を引き離すのではなく、汚れた場所の中に癒しと神聖さを携えて入って行かれました。荒野を、敵対を、そして死を通り抜けて、神のご臨在を運ばれたのです。そして今、死の地を征服された方として、いのちと無垢をもって治めておられます。そのイエスが今、神のご臨在を運ぶという祭司としての務めを、私たちに委ねてくださいます。御霊によって、私たちは神の神聖さを運ぶ生きた器となり、腐敗と滅びの世に神のいのちを携えていくのです。
そしてイエスは、まことのユダの獅子です。神の民の前進を導かれますが、それは暴力によるのではなく、十字架によるのです。霊的な暗闇を追い出されるのも、征服によるのではなく、復活によるのです。イエスは神のご臨在へと至る道を開き、新しい創造へとご自身に従うよう私たちを招いておられます。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自身の臨在を民の中心に据え、死にゆく世界へそのいのちを運ぶようにと召してくださる神を見ることができるように祈ります。そして、私たちを前へと導き、神の聖いご臨在を運ぶ生きた器としてくださるユダの獅子、まことの幕屋であるイエスを見ることができますように。

