ここで何が起こっているのでしょうか
出エジプト記 1章では、イスラエル、モーセ、ファラオが、創世記の最初の登場人物であるアダム、イブ、蛇と重なり合う姿が描かれていました。それに続く章では、モーセが創世記の次の人物、つまりアダムとイブの息子カインと重なっていきます。アダムとイブは、エデンで神と共に生きるために造られました。しかし園の外では、蛇が彼らを支配し、神と共に生きる命から引き離して、自分の死の領域に閉じ込めようとします。それでも蛇の領域にありながら、アダムとイブはカインとアベルという子どもたちに命を生み出しました(創世記 4:1〜2)。ところが蛇はカインを支配し、弟を殺させて、彼を死をもたらす者に変えてしまいます。アベルの血が地から叫び声を上げたとき、神はそれを聞き、カインのもとに来られました。それに対してカインは荒野へ逃れ、神から引き離されて蛇の領域に住むことになったのです(創世記 4:8〜12)。
出エジプト記では、神の民が新たな蛇であるファラオに支配され、囚われています。それでも彼らは蛇の領域の中で、子どもたちに、とりわけモーセに命を生み出しました。ファラオの家で育てられたモーセは、高い教育を受け、富にも恵まれ、エジプトが提供しうる最良のものを手にしています。もし蛇を打ち砕く立場にある者がいるとすれば、それはモーセでしょう。しかしモーセは、救い主としてふさわしくない者であることをすぐに露わにします。ある日、モーセはエジプト人の監督がヘブライ人の奴隷を打ちたたいているのを目にします。今こそ神の民の解放を成し遂げる時ではないかと考えた彼は、その男を殺し、命ではなく死をもたらしてしまうのです(出エジプト記 2:11〜12、使徒の働き 7:23〜25)。こうしてモーセはカインと同じように荒野へ逃れ、神の民から離れて蛇の領域に住むことになりました(出エジプト記 2:15)。
それから数十年、モーセは異国の地で故郷を築こうとしますが、それはむなしい試みでした。エデンで神と共に生きる新しい命を、自分で造り出すことはできないのです。故郷からの疎外感は、彼が結婚した女性も、父となって得た子も、どちらも異国の者であるという事実によって、いっそう深まります。彼は息子に「異国の者」を意味するゲルショムという名前さえつけました(出エジプト記 2:16〜22)。その年月の間、アベルの血のように、神の民はエジプトの地から叫び声を上げていました(出エジプト記 2:23〜25)。それに応えて、神は新しいカインであるモーセのもとに来られるのです。
カインと同じように、モーセは命のある神の故郷から離れ、荒野に追放された身です。しかし神は、慈悲深い新しい創造のみわざとして、荒野にいるこの殺人者にエデンの命をもたらされます。神は、燃えているのに燃え尽きない柴の中でモーセに現れました(出エジプト記 3:1〜3)。それは、炎の剣によって守られたエデンの入口を思わせる光景です。神は殺人者であるモーセを、この新しいエデンの聖い地へと招き入れられます。そこで彼は断ち切られるのではなく、迎え入れられるのです(出エジプト記 3:4〜6)。
神はモーセに、エジプトへ帰り、ファラオに立ち向かい、民を解放して、エデンのような故郷へ導き入れるようお命じになります(出エジプト記 3:7〜10)。モーセは、自分のような者が兄弟たちに命をもたらせるはずがないと言って抵抗します。実際、彼はカインと同じように蛇に支配された者だったのです。しかし神は、いくつものしるしと約束を通して、死の荒野にエデンの命をもたらすために、蛇に対する力をモーセに与えると示されます。
まず神は、奴隷とされているすべての民を、モーセが今立っているのと同じエデンの場へ導き入れると言われます。カインのように人を殺したモーセをエデンに導き入れることができる神なら、アベルのように叫び声を上げる民を生かすこともおできになるのです(出エジプト記 3:11〜12)。次に神は、これからご自身が知られることになる固有の名を、モーセにお告げになります。それが「わたしはある」を意味するエホバです。神は、彼らを新しい故郷へ導くために、初めから彼らの先祖と共にいてこられたと説明されます。「わたしはある」が父祖たちと共にいて新しいエデンへ導いたのなら、「わたしはある」はその子どもたちとも共にいて、彼らを故郷へ導いてくださるのです(出エジプト記 3:13〜22)。
それから神は、「わたしはある」が蛇に対する力を持ち、奴隷とされたイスラエルを死から命へと引き上げることができると証明するために、三つの奇跡のしるしをモーセにお与えになります。第一に、神はモーセの杖を蛇に変え、また杖に戻されます(出エジプト記 4:1〜5)。神が共にいれば、カインを打ち負かした蛇も、モーセを通してエジプトで打ち負かされるのです。次に神は、モーセの手をツァラアト(重い皮膚病)に冒された手に変え、それを懐に入れると元の健康な手に戻されます(出エジプト記 4:6〜8)。神は死を命に変える力をお持ちです。最後に、モーセがナイル川の水を地に注ぐと、それは血に変わります。これは、神が地から叫ぶアベルの血の声を聞かれたように、ナイル川から叫ぶ彼らの子どもたちの血の声も聞いておられることを示しています(出エジプト記 4:9)。
そして最後に神は、ファラオに対する代弁者として、兄弟のアロンを共に遣わすとモーセに告げられます。カインのような殺人者に与えられた究極の回復として、神は彼のために叫んでくれるアベルのような兄弟を、彼と共に遣わされるのです(出エジプト記 4:10〜17)。二人は共に蛇を打ち負かし、神の民を故郷へ導き入れることになります。
福音はどこにあるのでしょうか
創世記のカイン、出エジプト記のモーセという人物像は、今日の私たちにも重なります。私たちは皆、蛇に支配され、命のある故郷から断ち切られ、エデンから離れた異国の者として荒野で死にかけているのです。しかし神は、外にいる者たちにこそ、慈悲深くエデンをもたらしてくださいます。
神が燃える柴の中でモーセにエデンをもたらされたように、イエスは荒野にいる異国の者たちに、神の住まいをもたらしてくださいました。肉体をとられた「わたしはある」として、イエスが行かれるところにはどこでも、神がモーセにお与えになったしるしが伴っていました。モーセの杖のように、イエスは悪霊を追い出して蛇に対する支配を示されました(ルカの福音書 4:35〜36)。モーセの手のように、ツァラアトに苦しむ人々をいやされました(マタイの福音書 8:2〜3)。そして究極的には、ご自身の血が地に注ぎ出されたとき、敵のために赦しを求めて神に叫ばれたのです(ルカの福音書 23:33〜34)。モーセが水を血に変えたのは、神がイスラエルの叫びを聞き、彼らを死から救い出すという証拠でした。イエスの血が死において地に流されたのは、イエスが私たちを死から救い出したという証拠なのです(ヨハネの福音書 19:34〜37)。イエスは、死の荒野から出て、神と共に生きるエデンの命へ入る門です(ヨハネの福音書 14:6)。
カインのような殺人者であり異国の者であるモーセには、死を打ち負かして命をもたらすことはできませんでした。しかし燃える柴という聖い地から、神は彼と共にいて民を解放すると約束されました。イエスもご自身の教会に同じことをしてくださいます。イエスは、燃えるような聖霊の臨在によって聖い地を設けられるのです(コリント人への手紙Ⅰ 6:19)。異国の者の内に住まいを定め、殺人者にさえ命をお与えになります。「わたしはある」が今日、私たちの内に住んでくださり、蛇を打ち負かし、この世界の荒野にエデンをもたらす力を与えてくださるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、荒野にエデンをもたらしてくださる神を見ることができますよう祈ります。そして、私たちに代わってその血が叫んでくださる、肉体をとられた「わたしはある」としてのイエスを見ることができますように。

