ここでは何が起こっているのでしょうか
神はご自分の民と共に住みたいと願っておられます。そこで神は、愛する民と共にいるための建物——「住まい」あるいは「幕屋」と呼ばれるもの——の設計図をモーセにお与えになりました(出エジプト記 25:8〜9)。その設計はとても細やかで、読む人にも、そこに入る人にも、かつて神とその民が共に住んでいた場所であるエデンの園を思い起こさせるように意図されています。
中央の部屋には、エデンを守っていた霊的な存在の像で覆われた金の箱が置かれます(出エジプト記 25:10〜21、創世記 3:24)。この部屋が最初に描かれるのは、神に最も近い場所だからです。そこは神の王座の間であり、そこから神は、エデンでアダムとイブと共におられたように、民と共におられるのです(出エジプト記 25:22)。
次の部屋については、神はモーセに金の机と金の燭台を置くように告げられます。机は高価な木で作られ、金でおおわれています(出エジプト記 25:23〜24)。この高価な木と金は、エデンを思い起こさせるためのものです。聖書はエデンを、果樹の生い茂る森として、そしてその根の下に金を秘めた洞穴のある地として描いています(創世記 2:8〜11)。同じように燭台も、純金を打ち延ばして作られ、木の枝とつぼみのような姿にデザインされています(出エジプト記 25:31〜39)。ともしびには絶えず油が注がれ、その光が消えることのないようにされます(出エジプト記 27:20〜21)。そして金の机の上には、毎日新しいパンが供えられます(出エジプト記 25:30)。この炎とパンは、神が民と共に永遠に住まわれることの象徴です。火は民の必要を絶えず神の前に照らし出し、神の備えは日々のパンの中にいつも用意されているのです。
この二つの部屋は、金でおおわれた何十枚もの木の板で枠組みが作られ、その上に紫、青、赤の布がかけられます(出エジプト記 26:1〜29)。さらに、二つの部屋を仕切る聖なる垂れ幕があります。その垂れ幕には、神の王座を守る同じ霊的な存在が織り込まれています(出エジプト記 26:30〜37)。木と金は、文字どおりにも比喩的にも、エデンの森をいっそう深く茂らせます。霊的な存在が刺しゅうされた濃い色の布は、夜空を、そして被造世界と神の天の住まいとを隔てる境目を思わせるように意図されています。やがて祭司たちがこの幕屋の中を歩くとき、私たちの世界と神の世界とを分ける境界線をくぐって進んでいることを感じ取るはずです。この幕屋は、神が民と共に住み、民を導かれる、隔ての薄い場所なのです。
幕屋のすぐ外には、大きな青銅の祭壇があります(出エジプト記 27:1〜8)。この祭壇は、神の臨在の最も親密な場所に入るには犠牲が必要であることを示しています。またそれは、アダムとイブが園から追放されたことの逆転をも表しています。二人が園を去るとき、神は動物を殺して、その恥と裸をおおってくださいました(創世記 3:21)。しかし今や、犠牲は神から遠く離れる追放への備えではなく、人々を再び神のもとへ近づけるものとなるのです。そして最後に、幕屋と祭壇の両方を囲むのは、銀と青銅の飾りで作られた庭の外壁です(出エジプト記 27:9〜19)。この銀と青銅は、外の世界と、神が民と最も親しく共におられる「金の」臨在との間に、ある程度の隔たりがあることを示しています。
福音はどこにあるのでしょうか
神はご自分の民と共に住みたいと願っておられます。だからこそ地を造られました。だからこそイスラエルに幕屋をお与えになり、だからこそイエスという人となって民と共に住むことを選ばれたのです(ヨハネの福音書 1:14)。神が人として世に来られたとき、それはあの園での暮らしを再び現すことでした。イエスが行かれる所には、最初の楽園にあふれていたいのちと健康と活力が伴っていきました(ヨハネの福音書 11:43〜44)。盲人は初めて光を見、パンとぶどう酒は奇跡的に増やされ、イエスが命じられると天候さえも完全に静まりました(マタイの福音書 11:5、マルコの福音書 4:35〜41)。イエスの生涯において、神の「金の」臨在が民と共に住み、エデンを地上に回復し始めたのです。
しかし幕屋の設計が示しているように、世界が神の臨在に入り、自らエデンを経験するには、犠牲を通るほかありません。イエスは、すべての人が再びエデンに入れるように、ご自身を犠牲としてささげてくださいました。その死によって、アダムとイブが世にもたらした恥と罪の責めをおおってくださったのです(ローマ人への手紙 5:12〜21)。イエスの死がまさにそれを成し遂げたことの証拠として、イエスが息を引き取られたとき、神の王座を世から隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂けました(マタイの福音書 27:51)。今、この世の青銅や銀を越えて、いのちを与える神の「金の」臨在の中に永遠に生きることを、妨げるものは何一つありません(ヘブル人への手紙 6:19〜20)。イエスは、神の臨在とは私たちが訪ねて行く場所ではなく、神が私たちのもとに遣わしてくださる方、すなわち聖霊であると教えてくださいます。かつて神がイスラエルの幕屋の王座に座しておられたように、今、神は私たちの内に住んでおられます。聖霊によって、私たち自身が、神が共に住み、どこへ行くにも導いてくださる「隔ての薄い場所」となるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自分の民と共に住みたいと願っておられる神を見ることができますように祈ります。そして、私たちすべてが永遠に神と共に生きる道を開いてくださった方として、イエスを仰ぐことができますように。

