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デボーション

ローマ人への手紙 6章

罪に対しては死に、神に対しては生きる

ローマ人への手紙 6章から、私たちはもはや罪の奴隷ではなく、神に仕えて生きる者として解放されていることを見ていきましょう。

ここで何が起こっているのでしょうか

パウロは直前で、アダムの行いによって罪と死が人類の歴史全体に広がり、増し加わっていったと語りました。さらにパウロは、罪と死が人間を「支配していた」とまで言います。けれども逆説的なことに、それはかえって神の恵みと栄光を際立たせる結果となりました(ローマ人への手紙 8:20〜21)。アダムの大きな罪は、イエスがさらに大きな罪の贖いを差し出すための舞台を整えたにすぎなかったのです。今、イエスの死と復活によって、私たちは恵みと永遠のいのちの希望に支配される者となりました。しかしパウロは、読者の中に自分の論点を誤解する人がいるかもしれないと考えます。「罪が、神が私たちに恵みを与える機会をもたらすだけだというなら、罪を犯し続けて、もっと恵みをいただけばいいのではないか」。パウロは、この問いは、もはや死のうちで罪に支配されてはいないということが何を意味するのかを、まったく取り違えていると言います(ローマ人への手紙 6:1〜2)。

洗礼において、イエスに従う者はみな、罪と死に対するイエスの勝利に結ばれます。クリスチャンが水から引き上げられるとき、その人はイエスと同じように、新しく従順ないのちへとよみがえらされるのです。かつて罪に支配されていた体は、今やそこから解き放たれました(ローマ人への手紙 6:1〜7)。イエスは死を打ち破られたので、死はもはやイエスを支配できません。今イエスが生きておられるいのちは、神に仕えるために費やされています(ローマ人への手紙 6:8〜10)。同じように、イエスに従う者は、罪と不義に生きていた古い自分に対して死に、新しい永遠のいのちへとよみがえらされました。ですから、イエスに従う者が「罪を犯してもっと恵みをいただこう」と機会をうかがうことなど、決してあってはならないのです。そうではなく、そうしたすべてを脱ぎ捨てて、私たちを救い出してくださった恵み深い神に仕えて生きるべきではないでしょうか(ローマ人への手紙 6:11〜14)。罪と死はもはや私たちを縛りません。むしろ私たちは、イエスにあって恵みと永遠のいのちを与えてくださった神に結びつけられ、その方に支配されているのです。

続いてパウロは、私たちがもはや罪に縛られていないのと同じように、もはや「律法の下」にはなく「恵みの下」にあると語ります(ローマ人への手紙 6:14)。イエスに従う者の人生を支配する力は、罪でもユダヤ人の律法でもなく、イエスによって確保された恵みと永遠のいのちなのだと、パウロは強調しているのです。パウロは、この短い補足を誤解して「もうユダヤ人の律法の下にいないのなら、何をしてもかまわないということだ」と考える人がいるのではないかと気にかけています(ローマ人への手紙 6:15)。それに答えて、パウロは奴隷制度のことを考えてみるよう促します。奴隷は主人の支配の「下」にあります。同じように、人間はかつて罪という主人の支配の下にあり、それは私たちの死へと至りました。しかし今、人間は主人であるイエスの導きの下にあり、その方は永遠のいのちへと至る従順を命じておられます(ローマ人への手紙 6:16〜19)。恵みの下にあることは、不従順の言い訳にはならないのです。 

さらにパウロは、同じことを示すために読者自身の体験に訴えます。イエスに出会う前、彼らは自分の罪深い欲望に支配され、パウロが描いてきた死を身をもって味わっていました。しかし今はイエスが治めておられるので、ますます神を敬う者へと変えられ、イエスがその恵みによって確保してくださった永遠のいのちへの確信を深めています(ローマ人への手紙 6:20〜23)。彼ら自身の経験からすれば、「恵みの下」にあることは罪を犯す許可証ではなく、罪の奴隷状態からの真の自由なのです。

福音はどこにあるのでしょうか

パウロは、人間がかつて罪に奴隷とされ、神の命令に従うことができなかったと論じてきました。それはまさに旧約聖書の歴史そのものです。アダムとイブは、楽しむための楽園を与えられました。神は彼らを守り、保つために律法をお与えになりました。ところが彼らはその律法を破り、人類を罪の力の奴隷とし、園から追放され、そして死にました。同じように、モーセは神の民をエジプトの奴隷状態から解放し、新しい故郷へと導きましたが、彼自身も罪の奴隷状態に屈し、その地に足を踏み入れる前に死にました。ダビデとソロモンという王たちはイスラエルの十二部族を一つの王国へと築き上げましたが、彼らもまた罪の力の奴隷でした。一世代のうちに内戦が起こり、イスラエルは長く緩やかな死の道を歩み始めます。その後の王たちも、罪が神の民を支配していることを示し続け、神の律法を破り続け、ついにバビロンが、神が与えてくださった国からイスラエルを追放するに至りました。イスラエルの歴史はすべて、罪の力の証拠なのです。そしてパウロが手短に触れているように、神の律法には彼らを罪の奴隷状態から解放する力がないことの証拠でもあります。

神の民には新しい主人が必要でした。そして、まさにその方となるためにイエスは来てくださったのです。イエスは、罪の奴隷状態と死の力から自分の民を救い出すために来られました。その死において、イエスは墓の中でも、ご自分に信頼するすべての人の心の中でも、死を支配される方となられました。イエスによって、神の民は救い主に仕える奴隷とされ、永遠のいのちの力の下に置かれています(コロサイ人への手紙 1:13〜14)。私たちは不従順と死の奴隷ではなく、義といのちの奴隷なのです。私たちは先祖たちの過ちを繰り返すことから解放されました。そして新しい主人であるイエスは、その命令に従い、その永遠のいのちを味わうための力を与えてくださいます。

ご自分の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、ご自分の民を解放してくださった神を見ることができますようにと祈ります。そして、死と罪の力を打ち破り、ご自分のために生きる者として私たちを自由にしてくださった方として、イエスを見つめることができますように。 

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