何が起こっているのでしょうか
ローマの教会では、自らを「強い」と呼ぶ人々と、「弱い」と呼ばれる人々との間で、緊張が高まっていました。「弱い」イエスの弟子たちは、おそらく少数派のユダヤ人の信者であり、「強い」人々は多数派の非ユダヤ人だったと考えられます。具体的に対立が深まっていたのは、食べ物、ぶどう酒、そして祝祭日についてでした。「弱い」人々は肉を避け、ぶどう酒を飲まず、旧約聖書のユダヤ人の律法に従おうとしてユダヤ人の祝祭日を守り続けていました。一方「強い」人々は、肉を食べ、ぶどう酒を飲み、ユダヤ人の祝祭日を守らないことに良心の自由を感じていました(ローマ人への手紙 14:2、5、21)。しかもその確信があまりに強かったため、「弱い」人々により厳しい習慣を捨てさせ、その良心に反することをさせようとまでしていたのです。原則として、パウロは「強い」イエスの弟子たちの考えに賛成しています。信じる者は、こうした事柄については各自の良心に従う自由があるのです(ローマ人への手紙 14:14、20)。しかしパウロは、こうした議論の分かれる問題をめぐって強い人々が教会を分裂させているそのやり方には賛成していません。自分の確信のために教会を分裂させることよりも大切なのは、イエスに従おうとしている人たちを愛し、迎え入れ、受け入れることなのです(ローマ人への手紙 14:1〜2、15:7)。
神は弱い者も強い者も、ともにご自身の家族として迎えてくださいました。ですから、肉を食べる人が、食べない信仰の兄弟姉妹をさばくべきではありません。また、ある食物やぶどう酒を控える人が、それを楽しむ人をさばくべきでもありません。私たちをさばくのは神おひとりです(ローマ人への手紙 14:3〜4)。他人をさばき、自分の意見を押しつけようとするのではなく、すべての信じる者が神の前で自分の良心に従えるように、その余地を与え合う必要があるとパウロは語ります(ローマ人への手紙 14:5〜7)。そもそも、イエスは死んで復活し、今やすべての人を最終的にさばく方として座しておられます。イエスの弟子はみなイエスに対して責任を負うのですから、良心にかかわる議論の分かれる問題について互いにさばきを下すのはふさわしくありません(ローマ人への手紙 14:8〜12)。
さばきを下す代わりに、強いイエスの弟子たちは、より弱い兄弟姉妹を愛し、励ますことに心を注ぐべきです(ローマ人への手紙 14:13〜14)。強い人々は、肉を食べ、ぶどう酒を飲む自由を用いることに、決して罪の意識を感じる必要はありません。けれども、その自由を誇示して、真剣にイエスに従おうとしている人々の確信を崩してしまうようなことをすべきでもないのです(ローマ人への手紙 14:15〜16、20〜21、23)。クリスチャンコミュニティーのしるしは、何を食べ何を飲むかによってではなく、互いにどのように愛し合い、どのように関わり合うかによって決まります。自分の自由を公に主張するのではなく、強い人々は一致を追い求め、その自由は個人的に楽しみ、弱い人々のために控えるべきなのです(ローマ人への手紙 14:19、21〜22)。そしてパウロは、これは単なる提案ではなく、強い信仰者の務めであると言います(ローマ人への手紙 15:1〜2)。イエスが他の人のために死んでくださったように、強い信仰者は、自分の教会の調和と一致のために、自分の自由や楽しみを進んで捨てなければならないのです(ローマ人への手紙 15:3〜6)。
福音はどこにあるのでしょうか
パウロは手紙のこの部分の最後に、強い者も弱い者も、すべての信じる者に対して、イエスが自分たちを神の家族に迎え入れてくださったのと同じように、互いを教会へと迎え入れるよう呼びかけます(ローマ人への手紙 15:7)。互いを犠牲的に受け入れ合うことは、イエスの犠牲を示すものとなり、神が最も古い約束に誠実であられたことの証拠となるのです(ローマ人への手紙 15:8)。創世記にさかのぼれば、神はユダヤ人も非ユダヤ人も一つの家族に含めると約束しておられました(創世記 12:1〜3、15:5〜6)。そして「強い」異教徒、「弱い」ユダヤ人、そしてその間にいるあらゆる人々から成るローマの教会は、神がこの古い約束に誠実であられたことの生きた証拠なのです。
パウロはヘブライ語聖書の他の四つの箇所を引用し、ユダヤ人と非ユダヤ人が一つの家族に含められることは、初めから神のご計画であったと説明します(申命記 32:43、詩篇 18:49、詩篇 117:1、イザヤ書 11:10)。信じる者たちが、その「強さ」の程度にかかわらず、大きな意見の相違があってもなお互いを愛し合うとき、私たちはイエスの世界規模の使命が実現しつつあることを世に示すことになるのです。
自分の信仰の実践のほうが、他の人よりも賢明で、より聖書的で、より優れていると思うことは何度もあるでしょう。そして時には、実際にこちらが正しいこともあります。けれどもパウロは、議論の分かれる問題で自分が正しいということは、教会をさばいたり、支配したり、分裂させたりする理由にはならないと語ります。あまりにも多くの場合、愛の欠如とさばきの存在が、教会を分裂させてしまいます。本来神は、教会を、すべての人をご自身の家族に加えるという歴史をまたぐご計画をのぞき見る窓としようとしておられるのです。むしろ私たちは、他の人のために自分の自由を捨て、大きな犠牲を払ってでも他の人を愛し迎え入れることによって、イエスがなさった犠牲を自分の生活の中で繰り返すよう招かれています。
ご自身で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、すべての人をご自身の家族としてくださると約束された神を見ることができますようにと祈ります。そして、弱い者を迎え入れるためにご自身の力と自由を捨てられた方として、イエスを見ることができますように。

